エコール

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「ミミ」のときよりも、いろんなものの描き方が、一層執拗になっていて、しかも、それが複数の対象について、執拗に、しかもあからさまに、これでもかと、描かれるので、かなり、見ていて、息苦しい映画でした。息苦しい、ほんとうに、息苦しかったです。最後のあのシーンから、またあたらしい息苦しさがはじまるようで。最後のあのシーンを解放だととらえるのは、むずかしい。前の段で、解放がある先のくらやみみたいなものが繰り返し示唆されることもあって、非常に、絶望的な気分にむしろなりましたが、、けれど、郷愁のようなものをもって見るべき映画なんだろうか。生々しすぎて、それも難しいと思うのだけれど。結局のところ、子ども時代の経験というのは、ずっとひきずられるものであって、ずっとそこに居続ける自分というのと共存するのが人間であるような気もするもの。息苦しさが多岐にそして長期的にわたっているので、咀嚼するのが非常に難しいと感じました。原作があるようで、どこまでが監督の演出によるものなのかわからないのでなんともいえないのですけど。。原題がイノセンスなのですね、じゃあ、イノセンスでいいじゃん、エコールじゃあ、なんの映画かわからなくなるよ。。正直、いい映画だとは思えないし、好きだともでいいがたいんだけど、、、、いろいろと考えなければいけないような気がした。「少女性」とはよく言ったものだけど、なんとなく、そういう言い様を遠ざけたい気分が自分にはあって、なんなんでしょうね、「少女性」って、しかも、なぜ、それが何度も、何度も、いろんな形をとってとりあげられるんでしょうね。この映画にみる、「少女性」というのは、だれの目からみた「少女性」なのかしら。メタ的なもの?それとも彼女たち自身のものなの?どっちもが同質なんでしょうか。「少女性」っていうのを人はどんなふうにとらえて、何度もくりかえし口にのぼらせるのか。それがずっとわからなくて、本当、よくわかりません。でも、気になるんだろうとは思います。不可解で。原作を読んでみようかなと思いました。そうすれば、この映画の位置づけもすこしはわかるのかもしれません。