わたしとSSWSの戦極

昨日は、PPVで戦極みた。
とにかく、フェザー級のトーナメントが壮絶だった。すごかった。本当に。3試合とも。格闘技は、「どうせ裏がある」って考えるよりも前に、わたしのからだを反応させてくれる数少ないもの。格闘技にだって、裏はあるし、どんな世界にだってどろどろしたものや、うんざりさせられることや、当然ある。けれど、昨日のフェザー級のトーナメントをみて、鳥肌たてて、目うるませて、ずっとふるふるして、見てて、思い出したのは、前の日の、SSWSのことだった。
わたしは、1期の1クール目のとき、SSWSは結構行ってた。2回出た。どっちも1回戦で負けた。テキストだけみたら勝ちなんだけどねっていんこさんに言われた。そこで、わたしは、考えた。どうせラッパーには勝てねえし、詩ってそういうもんじゃねえって、それで、裏庭朗読会をはじめた。押し出すのは自分じゃなくって言葉であるべきだ、詩がまずあるべきでしょ、で、わたしは音楽にはなれねえし、ってトーナメントとか意味ねえよ、勝負つかねえもんにそんなんしてもしょうがねえよって思ってた。べつもんじゃん、って。そして、2クール目以降はグラチャンくらいしか行かなかった。1クール目のとき、詩人が浮足立ってるのも、正直気に入らなかった、なにできる気になっちゃってんだよ、って思ってた。まあ、いま考えればみんな八つ当たりみたいなもんだなって思うけど(苦笑)。
でも、やっぱり、また、SSWSにでようって思ったのは、ものすごいかっこいい音楽に出会ったからで、そして、柴田の試合を生で見て、タイガーマスクのマスクが破られる瞬間ていう詩をかいたからだ。プロレスと総合格闘技の関係。総合格闘技の場にいるプロレスラー柴田。それがわたしのなかでの、詩とそれ以外の言葉や音楽の関係と、戦争とそれ以外のたたかいとの関係とすごいだぶって、柴田がわたしにそれを強烈に感じさせてくれたからだ。だから、それをSSWSでやろうと思った。自分なりの回答だった。ものすごい遅い回答だけれど。
けど、実際出てみて、グラチャンでるの決まった時も、思ったのは、ラッパーが出てくることが少なくなったから、勝てただけじゃん、要は盛り上がってないってことじゃんって思ってた。詩人ができるパフォーマンスとかリーディングってなんなんだろう、っていつもすげえ疑問に思ってた。自分がやってることも他人がやってることもぜんぜん信じられないことの方が多かった。もちろん、わたしはぐわあってならないわけじゃない、センチメンタルにならないわけじゃない、勝って、認められてうれしくないわけじゃない、やっぱり、認められたらうれしい、褒められたらうれしい、おもしろいことがしたい、かっこいいことがしたい、けど、そういう自分がすげー恥ずかしい。恥ずかしくて、そいでそれを恥ずかしがってる自分も恥ずかしいっていう無限ループ。
けど、土曜日のSSWSがあって、戦極みて、思った、やるほうも、みるほうも、いつだって、そこになんかのせて、それが感情でも欲望でも思想でもなんでもいいんだけど、なんかのせる、かさねる、それで、世界ができる、わーって、なる、からだも、あたまも反応する。それぞれかさねてるものがぜんぜんちがっても、世界になる。シーンなんかねえよって思ってたけど、あるんだな、シーンがそこにできるんだ。世界ができるってことだ。そういうことだと思う。よく見てる格闘技のブログにこんなようなことが書いてあった「小見川も金原も、準決勝で消耗してたのに、決勝で壮絶な試合をみせた。世界のレベルと比べると及ばないと思ったけれど」と。世界のレベルと比べると及ばない、けれど、あそこにものすごい世界ができた。そういうことができるのが格闘技。そして、それは、小見川と金原だけでつくったものじゃない、準決勝にでた、日沖とサンドロ、トーナメントにでてたぜんぶのひとたち、戦極にでてたぜんぶのひとたち、セコンド、スタッフ、その前にあるたくさんの格闘技団体のひとたち、そして、見ているひとたち。
で、わたしが、そこに、自分の詩や、自分をかさねることで、それと同時に、なんも考えずに、鳥肌立てたり、震えたりすることで、世界がひろがる。いやおうなく、ひろがる。SSWSだってそういうもんだった。世界をひろげること、それはもしかしたら、わかってないやつの冒瀆だったり、面汚しだったりするのかもしれない。けど、もう、そうやって逃げをうったり、世界の中にいるのに、どろどろした関係から目をそむけたり、汚いところをかぶらないようにしたりして、「関係ないから」って言っている時期は過ぎたんだなって、思った。もう、世界の一員なんだな、どんなにそれを恥ずかしがっても、そうなんだって、そして、それを誇りに思える瞬間があるんだってことも。
北岡が負けた。
昨日見て、今日もう一度試合をみたら、廣田の作戦勝ちだって痛烈に感じた。そういう勝負もあって、そっからまたなにかはじまる。どのようにしても、つづけたり、おわらせたり、する、おわらせたあとに、はじめたりもする。
北岡がやっぱり、好きで、けど、ムカつく。
ムカつくけど、好き。
そういうのを、ずっと、わたしは忘れないでいようと思う。
また、こっから。
こっから。

遅いけど、いま、ほんとうに、ありがとうって思う、いろんなことに、いろんなひとに、こういう節目って、やっぱ、ある。
また、こっから、やるんだって、思う。
ちゃんと、世界だったんだから、また、やる。
こっからどうしてくかって、ちゃんと考える。
そりゃあ、たいした世界じゃないって、まだ思ってる。
しょせん、詩でできることなんて、ってまだ思ってる。
どうせ、興味ない人には、どうでもいいことだ、ってまだ思ってる。
どうせ、みんな自分のことしか考えてねえじゃん、ってまだ思ってる。
28年間培ってきた性格はそうそうかわらない。
けど、こういう性格の人間のからだだってうごくし、あげられる声もあるって、そういうのをちゃんとみせたいよ。
で、完全にわーって、なれるひとたちがやることに、ちゃんと向き合いたい。
まだ、ずっと、斜めからやってくる、「どうせ」とつきあいながら、やってくんだろうし、迷ったり、葛藤したりで、無限ループ。
そりゃあ、無限ループだよ。
けど、けどさ、
わかったんだ。
シーンて
あったんだな。
嘘じゃ
なかったんだな。
だったら、
盛り上げてかなきゃ。
世界のレベルと比べると
遠く及ばない
ものすごい世界を
作っていかなきゃ。


ほんとうに ありがとう って おもう。
ありがとう。
いろんなことに いろんなひとに。


http://www.marz.jp/ssws/






読み返してたら、なんか、言葉足りねえ。うまくないな。いつもそうだな。
SSWS行って、やっぱ、すごい人いっぱい見た。
詩人だろうがラッパーだろうがそれ以外だろうが「スゲエ人はすげえ」。
そういう説得力がある人はいる。
当然いる。
けど、わたしは「なにがなんでもすげえ」人じゃねえし、当然。
わたしは音楽を聞くのが好きで、ライブに行くのが好きで、格闘技を見るのが好きで、功夫映画をみるのが好きで、とにかく、好きで、それやってるだけで、なんつうんだろ、ただ音楽じゃなく、ただ格闘技じゃなく、ただ功夫じゃなく、それが同時に人生のすべてになる。そこにすべてがのっかる瞬間がいっぱいある。もう、生き方とか感じ方とかそういうものになる。
そしたら、それは、なんてことだろうね。すげえじゃん。ただ見てるだけなのに。自分なにもやってないのに。
ものすごい、教えられる、わからせられる、それはもう圧倒的に。
そしたら、自分でそれをやろうとは思わない、絶対に思わない。
格闘技やろうって思わない、音楽やろうって思わない、映画をつくろうって思わない。
それを、すげえゆるがすのが、SSWSだった。
だって、わたし、詩、書いちゃってんじゃん、朗読、しちゃってんじゃん、けど、「なにがなんでもすげえ人」じゃねえじゃん。圧倒的にわからせることなんかなにひとつねえじゃん。しかも、音楽やってる人が、そこにいちゃってんじゃん。
で、もう、わけわかんなくなった、ラップを聞いてても、ああ、じゃあ、自分の詩はどうなの、自分の朗読ってどうなの、言葉としてラップ聞くってどういうことなの、フリースタイルってなんなの、音楽と言葉ってどう関係づくの、ことばのことを考え出すと、もう、ちゃんとまっすぐ聞けなくなったし、盛り上がれなくなった。でも、ずっと朗読しつづけて、朗読しつづけてたら、詩がどんどん体をなさなくなった、詩が詩として成立しなくなってきた。じゃあ、結局、詩ってなんなの、詩人をなのる人ができる声と言葉をつかうものはなんなの。もう、ずっとめくらまし状態。詩人がトラックつかって朗読するのにものすごい抵抗があった。ずっと、わけわかんなくって。けど、スゲエ人はすげえじゃん、やっぱ、それはちゃんとわたしにもわかるし、わかるよ。けど、そのすごさがなんなのかっていうことをどうやったって考える。で、やっぱわかんない。ラッパーはラップが好きで、詩人は詩が好きだ。結局そうで、そこをこえられるのは「スゲエ人」だけ。しかもそれは一瞬のこと。けど、柴田が教えてくれたのが(というかわたしがかってにわかった気になってるだけだけど)、反転することがあるってこと。反転させるんだ、ってこと。うまく説明できないけど、そういうことだと思う。わたしは音楽が好きで、格闘技が好きで、功夫映画が好きで、生活があって、人と会って、話したりして、そして、それによって自分が圧倒的にわからせられたことを、もう一度反芻する。それがわたしにとっての詩だし、朗読だ。だから詩が好きで、朗読が好きだ。そのとき、反転がある。そういうことだと思う。
そう考えると、SSWSはわたしのなかで、すごいでかかった。改めて思うと、ほんとそうだ。ずっと考えてきたんだから。ずっと、そのことを、音楽と詩と言葉のことを。そこにのっかる人生のすべてを。そして、それを自分にどう引き受けるかってことを。
ああ、大袈裟なこと言ってんな。ひとりのひとごときがなあ。
けど、そうなんだって思うよ。
いろんなひとがいろんなことが
わたしに詩をかかせる。
わたしが詩をかくことが
ぜんぜんいろんなひとに
かえっていかず
それどころか
とばっちりになる
ことがあるって
おもってたし
おもってるけど
けど
やっぱ
わかりたいことがたくさんあるから
わかったってわかりたいから
詩と声と言葉があって
よかったと思うよ。
ああ、やっぱ言葉が足りないな。


今日は
AIR JAM 2009 すなわち kamomekamome GARLIC BOYS SLANG @ 下北沢shelter
でした。
kamomekamomeはいつも通り、わーっと楽しむ、わーわー。
あー。ガーリックボーイズ最高だったな。すげえ、かっこよかった。
ずっとやっててくれてありがとう。
わたしが見る機会なんかあってくれてありがとう。
あー、すげえ、まじ、すげえ、かっこよかった。
あと、SLANG 拳のつかいかた 思いだすライブだった。
やっぱ、そうだよなあ。
これだよなあ。
あー
よかった
よかったなあ。