GO HOME NO HOME
やわらかいものが
ひきつれて
きもちいい
と
かんじるのだとすれば
そのたびに
しにたえるものが
あって
からだのなかの
しろい
だいこんのかたちを
した
かみさまが
ぜんしんで
なく
なく
あなが
ないわたしの
だいこんのかたちを
した
しろいかみさまは
なにも
にがすことが
できないから
すこしだけ
ふくらみ
ねむったら
また
しぼむ
なく
せいかつも
いのちも
どちらも
いやならば
どちらも
やりつづける
しかない
きみと
いっしょうをともにする
ことはできる
けれど
きみと
しろくじちゅういっしょにいる
ことはできない
ちいさな
ばくはつだけで
みをふるわせても
なにが
おわるわけでも
ない
そのようなからだを
もちあわせて
ことばが
つぎつぎに
くびをしめられて
しにたえていくのを
わらいながら
みる
おんがくが
つぎつぎに
そらにほうりなげられて
コンクリートに
たたきつけられるのを
おどりながら
みる
正当に
アルコールで
酔い
すこしうかぶ
脳と骨に
すきまが
できる
ああ
こうやって
いつかくるおわり
を
習っている
有理 帰りが遅いと心配するよ だから はやく帰ってきてよ と 篤志が言います
篤志は
わたしの詩を
読んだりしない
たまに読むと
こう言う
「オチがよわいね」
「ぜんぶだんぺん」
朗読を
聞きに来たときは
こう言った
「お金をとっちゃだめ」
「たたみかけてばかりじゃ不快」
篤志の
小学校のときの作文は
出来事しか
書かれていない
篤志は
わたしの友達の顔を
覚えない
一日の間だったら
分析する
「ひとり 500円で 1500円」
篤志の
考えてることが
12年一緒にいて
わたしにはちっとも
わからない
似ているところなんか
ぜんぜんない
篤志は
出会ったときに
こう言った
「わかったんだよね このひとだって」
「どこが好きかは わからない」
わたしは
関係性が
わかることなんて
いままでも
これからもないよ
けれど
たぶん
結婚するんだと思います
そして
ぷくぷくした
子どもが
うまれてくると思います
人間はね脈拍よりはやいことばを
りかいするのはむずかしいんだよ
と
篤志は言いました
篤志 わたしは なにかできるって おもってないよ
わたしは
ばらばらと
おわりを何度も
習いながら
かえり道を歩き
血管が浮き出た
白い足や
やけどをおった
顔のまばたきや
ぶつぶつで
いっぱいの背中や
それら
それらから
にじみでる人間に
ふらふらと
ついていこうとする
わかってるよ
やわらかいものが
ひきつれて
きもちいいって
なる
けれど
かたいものと
かたいものを
ぶつけあうことが
ひつようで
なく
こんなんじゃないって
なく
こんなんでいいって
なく
ほんとはだめなんだって
なく
だからみんないなくなるって
なく
ひとりにしないでって
なく
あたりまえにひとりだって
なく
なにもないって
なく
なにかみつけなきゃって
なく
ちゃんと ちゃんと しなきゃって
なく
ほんとうは
ぜんぜんなかない
どこまでもひろがる
なめし皮のような
毎日を
見ては
呆然とする
ひどいのは
わたしの目のほう
そして
わたしのおなかのなか
だれもききたくない
はなしや
こえを
しらないひとや
したしいひとの
かおに
ぶつけたいと
おもっています
だから
なんどでも
みつけてもらわなきゃならない
ことばでも
からだでも
なく
だいこんのかたちをした
わたしのしろいかみさまを
なんどでも
みつけて
もらわなきゃ
ならないよ
ごめんね
けれど
おわりがくるまでは
おわりを
ならいつづけ
かくれている
たいようが
でた
そして
きょうは
あめがふっている