麦の穂を揺らす風

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予備知識一切なしで行ってしまって、、ちゃんと心の準備をしてから見に行くべきでした。
こういう映画をみると、知っている、ということと、知らないということについて考えてしまう。知らないということがいけないとも思うし、けれど、知っているうえでのその先が自分にはまだ見えない。 知って、知って、知ったら、先が見えるのだろうか。 知っていることのある場所もわからずに?
けれど、知る、知らないを別に、どこにいても、人の心の動きというのはあまりかわらないのかもしれない。なんと、人というのは、衝動的なもので、扇情的なもの。論理さえも、衝動だろう。そのことはわかっていた方がいいことなのだろうか?それともそれも違うのかもしれない。黒社会を見たときも思ったことだけれど、戦争と抗争と内乱と葛藤とどのように違うのか考えながら、ずっと映画をみていると、自然がそよそよしていて、自然がそよそよするのが、なんともいえないときのなんと多いことか。
衝動的だ、扇情的だ、と思ってしまうのとは別に、個々の感情と世界の理念との関わりが、重い重い肉体のように感じられることがある。それはどの社会にもどの国にもある程度共通なのではないだろうか。そこで、何を考えるのか、何を考えるのか、という問いしかでてこないこの状況は?と思う。確かに、どのような状況で人同士が殺しあったり、痛めつけたり、追い詰めあったりするのかの、状況で大きく違うことはあるし、何に追い詰められるのかで違うこともあるけれど、帰結は麻痺であり、中庸化であるのだな、と痛切に感じさせる媒体が映画であるような気がします。そして、この映画はそのような媒体で強くあるのだろう。個々で必死に世界のため肉親のため社会のためと考えて考えたことが世界の理念にがんじがらめにされて吐き出された他人の血反吐だったとき。そういうとき。
やっぱり、この映画の伝えるものは図りかねる。けれど、帰結は多かれ少なかれ同じだということ、それが肉親同士であろうとも同胞同士であろうともだ。もともとどのような関係だったからより凶暴で残忍だとか、より悲惨で陰惨だとか、そういうことはないはずだろう。そこからどのように考えるかはまだわからないけれど、このような帰結に上も下も右も左もない。見ておいてよかったとは思う。けれど、線がやはりみえない。みえなくてもいいのか、それもわからない。