アクラム・カーン + シディ・ラルビ・シェルカウイ 「ゼロ度」


去年のさいたま芸術劇場でのビデオダンスで、シェルカウイが振付けた「ダヴァン」がとてもおもしろかったので、実際に生で見たいと思ったので行ってきました。けれど、これはどちらかというとアクラム・カーンからはじまった企画でしたね。アクラム・カーンについては、名前くらいしか知らなかったんだけど、生で見られて、本当によかった。今回、音楽もライブで、音楽がライブであるダンス公演に行くのがはじめてだったので、音楽がライブであるだけでかなり体感として違ってくるんだなと思った。なんだか、振動がそこにあるというか、それによって、ダンス自体の振動も伝わりやすくなるのかもしれないな。
よかったな、おもしろかったなと思うダンスを見たとき、あまり言葉で説明できないし、したくない、というのがあって、それは詩に関しても同じだなといつも思うのだけど、今回の公演をみて、強く感じたのが、ダンスに求める感覚というのは、自分が詩に対して求める感覚とやっぱり結構似ているなということ。なので、公演自体の感想、すなわち、ここのところでこう感じた、ということよりも、もっと大きい範疇でのことをメモとして書いておきたい。
最初、二人が真ん中にでてきて、座り、同じ格好同じ身振りで、同じことを喋り始める。喋る内容はアクラム・カーンが実際に体験したバングラディシュとインドの国境での出来事。パスポートを取り上げられたこと、電車に乗っている途中に乗客が亡くなったこと、ホテルでの独白、そんな事柄だ。とにかく、最初に二人の人が同じ身振りで同じことを喋りだした瞬間がもつ強度というものがすごい。これは不思議なのだけれど、とにかく喋っているだけだし、けれど、本当に同じように同じことを二人の人が喋っているというだけで何か立ち上がるものがあるのか、とにかく目が離せなくなる。その後、語りの形がすこしずつ変わっていく。向かい合って会話をしているような形をとるときもあれば、アクラム・カーンが寝転んだシェルカウイの立てた膝に座り水の中を覗き込むようにお互い向き合う状態で、話すと、シェルカウイは本当に鏡像のように対称の動きをする。アクラム・カーンはバングラディシュ系イギリス人で、そのような出自の人が話すバングラディシュからインドへ行く過程で起こったことは、ごくごく個人的なことだろうし、個人的なことは社会や歴史に強く縛られている一方で、今のその場所の時代感覚にも引っ張られる。その狭間がゼロ度ということでもあるのだろう。そのノイズのようなものが、ある意味では「私」で「個人的なこと」だろう。バックグラウンドという「私」を語るための「つて」のようなもの。けれど、身体というものは即「私」であり、それが他からは絶対的に、微かにではあるけれど、ずれるものだ。アクラム・カーンとシェルカウイでは身体の質、動かし方、全体の印象がかなり異なる。肌の色や筋肉のつき方がまず違う。その二人が様々な関係性になっていく過程で、ノイズであるところの「私」で「個人的なこと」ではなく、ただそこにあるものになっていく。そして、ただ、そこにあるものになってなお、彼らは「私」である。その極に触れる感覚が、見ている方に訪れるとき、ああ、これだな、と思う。それは私の側の求め方によるものだろうが、今回の公演はその、なお「私」であるという極に触れる感覚を改めて強く感じさせてくれた。実際には、それは幻想だと思うけれど、確実な運動でもある。運動であるときのことを強く感じられるとき、私は、ああ、よかったな、喜ばしいな、と思うし、この公演は、その感覚をくれた。そして、その感覚というのは、私が今のところ知りえない、宗教的な狭間、バングラディシュとイギリスという文化の狭間、バングラディシュとインドとの実際の国境、そのようなより大きな意味での「個的なつて」から端を発しているということだ。その端で感じられる感覚が、より運動的に感じられるなら、それは私にも感覚することができ、それはより単純に振動であったり震えであったり、要は運動だ。ある意味で、それはどこにでもある。そして、大きく違わない、けれど、別のものとしてどこにでもある。それを信じることをしたいのだろうと思う。
ある動き、一緒に同じことを喋るとか、同じ動きを繰り返しながら円を描くとか、指で円を描いたあと、ひらくとか、そういうある動きをすることによって、関係性を演じるということなのかもしれないと思った。けれど、その関係性は常に流動する。その過程によって、関係性を語ることができなくなっていく感覚がやってきて、肌の色、身体の質、肉のつき方や、背丈それらが強くしるしとして存在し、強くしるしとして存在するのだけれども、そのしるしがどうあろうとも、そこにあり、そこにあって、動く。ひとつひとつの動き、とまる、動き始める、手を伸ばす、手が空を切る、横たわる、怒って、怖くなり、とまる、とまって、相手によって動かされる、具体的な出来事からはじまるそれらの動きが連なって重なることによって、方向がよくわからなくなった希求や震え、振動があって、共鳴して、まるで宙に浮かぶようだった。ステージ上にあるすべて、からだ、こえ、おんがく、にんぎょう、それらがからまりあうのに、それはそのままそこにある。


詩において、私が描き出せるのは、私の感覚、要は運動器間の働きによるもののみだ。他人の感覚は通ることができない。そして、言葉は借り物だ。借り物だけれど、その借り物も、私は自分の感覚によってしか、わからない。借り物であるところの言葉でさえ、通ることができるのは、私の感覚のみだ。そして、私の感覚は私にしかわからない。だから、もっと、私は私になって詩をかきたいと思うし、詩を読んで、もっと私になりたいと思う。私を証明するつてを失ったところにある、私がする感覚や運動を求めてるのじゃないだろうか。そうしたら、もしかして、あなたの感覚とわたしの感覚が似たような軌道をたどるかもしれない。たかが詩だ。いつもこういうことを言っていると甘いことを言っている気ばかりするのだが、あくまで、たかが詩だし、詩なんてどこにでも転がっている。けれど、強く思うのは、端を発するのは、すべて「つて」だ。何をいままで見てきたのか、どのようなバックグラウンドをもつのか、どこに行ったのか、なにを好むのか、そのような「つて」によって私は感じたり考えたりすることができる、そこから全部始まって、けれど、描きたいのは、何によって感じさせられたのかではなくて、どう感じたのか、だ。そして、どう感じたのか、は、どのような運動だったのか、ということだ。私は、どのような運動だったのかを伝えてくれる詩が好きだし、音楽やダンスにもそのようなことを求めているのだろうと思う。