ジャック・プレヴェール 鳥への挨拶

ジャック・プレヴェール 鳥への挨拶

いつもならこういうコラボレーションものって、なかなか手がでにくいんですが。。
今、自分の詩を書くスイッチが完全に切れているので、すごくこの詩集の中の詩がすんなり自分の中に入ってくる。そして、この詩集がとてもいいと素直に思うことができる。
というか、これ、紙がいいよね。このわら半紙みたいなざらざら感。
あと、絵と詩があんまり(というか全然)関係ない感じのところもいい。
すごいどうでもいいところでつながって、ただ同じ紙面の中にある。
字の配置の仕方もいい。
フォントの選択も、色や大きさにバリエーションがついているところも。
そういうのが、詩自体とはなにも関係のないかたちで、いろいろな形を見せている。
これって不思議な感じ。
詩自体は、詩でしかない。
絵があり、凝った装丁があり、配置の仕方があり、そういうのがいろいろとあるんだけれど、けれど、読んでみると、詩でしかないんです。
詩でしかないということを、この詩集の雰囲気が逆に際立たせている。
シンプルな詩だから、シンプルな言葉だからというのもあるし、訳をしている人が、アニメの映画監督だということもあると思うんですが、これほど、詩が、詩でしかない、これだけ、新しくいろいろなものをつけられて落とし込まれているのに、詩でしかないんです。
これってとっても不思議な感じ。
まあ、根本的なところだけど、絵も装丁も配置もプレヴェールがやっているわけではないということが大きいのかもしれません。
勝手に他人が決めて、本にしているわけだから。
でも、それが、とても嫌な感じに結実することも多いわけで。
いい感じと嫌な感じの違いがなんでうまれるのかわからないんですが、それもこっちの受け取り方次第なのかもしれない。
そのときの気分とか、単純に好みとか。
どっちにしても、なかなかこういういい感じを詩集一冊読んで、感じることってないです。
でも、当たり前のことなんだよね。きっと。

詩集って、雰囲気、すごい重要だと思います。
その詩集を手に取りたいか、鞄に入れたいか、家に飾りたいか、手に取ってぱらぱらして、目に飛び込んでくるランダムなフレーズを見て、それに満足を感じるか、っていうのが詩集にはすごく重要だと思うんです。
そして、その雰囲気につつまれて、読む詩が、詩として立っている必要があるし、それを感じることができる雰囲気が必要。
そういう意味で、この詩集は、とても幸福感溢れるものだな、と思った。
久しぶりに、詩の幸せを思い出しました。
でも、それは、当たり前のことなんです。きっと。
フランス語を勉強したくなりました。
原語で読みたい。


書くスイッチが切れているとしあわせなこともあるものです。
本当は、書くと読むがいっしょくたになっているときが、いちばん、自分にとっては気持ちいいのですが、そのいい感覚をわたしはすぐ忘れます。
だから、ずっと詩と付き合っているんだろうと思う。
よく忘れて、よく思い出したいと思います。何度も。当たり前のことを。