東京フィルメックス 「黒社会」


さて、ジョニー・トーの「黒社会」を見てきました。
1月に公開みたいなんで、あらすじは書きませんが、タイトルそのまんまの映画です。デビット・チャンがでてた。。
後方の座席で、かつスクリーンが小さかったので、見切れなかった字幕やら細かいところやらあって、公開されたらもう一回見に行きます。。明日は「黒社会2」なので、それ見たらまた感想変わるかもしれないけど、一応覚書程度に感想を書いておこうと。

とにかく、どんな世界であろうとも、足を踏み入れた瞬間から、無限の広がりと、とてつもなく狭い圧迫を、みんなが同時に背負うということ。それは自分以外のものとの関係において。それが象徴的にあらわれる題材が「黒社会」ということなんだろうと思う。実際を知る、知らないということ以前に、「世界」というのはどこにでも立ち現れる。
既視感と全くいままでとは違う感覚がかわるがわる立ち現れる映画だった。ここで描かれる「組織」というものは「国」と似ているようで違う。「抗争」というものも「戦争」と似ているようで違う。「組織」はもっと「家族」に近い気がする。お互いを「兄弟」と呼ぶように、「血のつながり」に近い。牛刀のような武器がでてくるけれどそれが象徴的。血を翻すことが必要なのだろう。
この映画で描かれているのは、「人」じゃなく、「世界」であって、当然のようにそこに人がいるということ。メインは世界であって、世界に突き動かされるまま突き動かされる人たちがそこにいて、なおそれぞれがひとりっきりだということだ。けれど、世界があるから、関係は続き、それは血のように明白なものだ。歴史が世界をつなぎとめるように、世界は関係を手放さない。
映画の中で、それぞれの人のバックボーンは一切語られない。世界に吊り上げられて、べろんと剥がされるようにしてしか浮上してこない。ずっと続くぼこぼことした音楽が、抜け出るところがない世界を覆って、ずるりずるりと引きずって、これでもかとわからせる。心胆に。
留置場で、監獄が3つ並んでいる。それをひいて撮るシーンが好きだ。隔たっている。隔たっていながら、文言を交わし、契約する。隔たっていながら、出し抜きあう。隔たっている、隔たっているものをまるめこみ、突き動かす、圧倒的な世界。家族とか、組織とか、だ。それは。殺し合いつづく世界が、終わらないのはそのせいかもしれないということをこれでもかと、音楽が鳴らす。欲望のつながり。
これまで見てきたヤクザ映画と感じる感覚とこれはすこし違う。映像は雄弁に語る。恐ろしいくらいだ。もうすでに積みあがっている世界に足を踏み入れるということと、関係を築き上げていくということとは全く別のことで、もちろん両方が共存するのだけれど、この映画で目につくのは前者の方だ。断ち切れない血のつながりで、だから殺し合いつづき、最初から隔たって裏切りあう。もう、裏切りあうという言葉が裏返るような気がするほど、絶対的に同じところにいて、なお、絶対的に隔たっている。
ここから、もしかしたら、2で、それぞれがべろべろと剥がれていくのかもしれないけれど、この時点では、世界の圧倒的な磁場を執拗に描く映画だなと思った。思想が景色になって翻る。びちびちと砂まみれになる魚みたいに、ぎらぎらして足掻くけれど、静かな遠くがずっとずっとそこにあるような。何度も思う。ジョニー・トーは映画を撮っているんだな。そして、映画は世界で、そこに人が当然のようにいるだけなんだ。とにかく、もう一度見ないとなあという感じです。いろいろ整理しないと。。

サイモン・ヤムの存在感の抑え方がよかったな。あと、ニック・チョン。。ニック・チョンにほんとヤラレそうです。。