NEKOMICHI GIRLS ROCK FESTIVAL 無事終了しました。
見に来てくださった方、共演者のみなさん、猫道さん、ありがとうございました。
お客さんが知らない人ばっかりで、しかも、なんか、すごい引かせちゃった感じがしたんですが、自分自身は楽しかったです。それってどうよって感じですが、楽しかったので感謝。
最近、読む「内容」がどんどんどうでもよくなってるのを感じる。
中身は、ニュースでも、誰かがいったひとことでも、よくて、それは交換可能。
そうなっていくのは本末転倒かなあと感じていたけど、そうでもないな。
声に出して読めるものがあれば、なんだっていいんだろう。
それくらい、言葉ってのは、信用できない素敵なものだ。


ひとりごと

小さい頃、実家の庭に、地下温室があった。
温室なので、地面からすこしあがったところに、ガラス張りになっているところがあった。
ある日、庭で、家で飼っている猫を追いかけていて、猫が温室の上に飛び乗ったので、当然、わたしも温室の上にのぼった。
のぼったら、温室のガラスが割れて、温室の中に落っこちた。落っこちて、ガラスが温室の中に降ってきて、血だらけになって、病院に行った。
そのときのことは、とてもよく覚えてるんだけれど、痛かったとか、血だらけになったとかそういうことは覚えていなくて、ただ、もう、自分が落ちたことにものすごくびっくりした。
猫が登れた場所には当然自分も登れると思っていた。
だから、ガラスが割れて、落ちるなんて、これっぽっちも考えなかった。
とてもびっくりした。
プールに飛び込んで、足がつかなかったことにものすごくびっくりしたことも、何回もあった。
そのたび、とてもびっくりした。
大人になって、もうそういうことはないけれど、けど、いまでも、不思議に思う。
どうして、あのとき、温室に登れなかったんだろう。
あっちの方が、嘘なんじゃないかなあ。
実は登れるんじゃないかなあ。
当然登れるはず。
そう思っている。
けれど、そう思っていると、そうじゃないので、びっくりする。
なんだか、その繰り返しをやっているような気がする。
仕事や学業、人間関係、すべてにおいて。
だから、だんだん、物事をうまくやるために、ほとんどのことは不可能だと前もって考えるようになってきた。
そうすると、なんとか、なってきた。
すごく迷惑をかけることはなく、すこしだけ迷惑をかけるだけですんできた。
と思ってきたのだけれど、最近、それが実はうまくいっていないんじゃないかと考えることが増えてきた。
なぜなら、根っこで、「温室に登れる」といまも信じているからだ。
温室に登れない、ということに納得いっていないからだ。
だから、最終的に、大きな迷惑になる可能性を孕んでいるし、実際、最近になってボロがボロボロではじめてきている気がする。
だから、逆に、「温室に登れる」って信じてるってことを、認めていかないといけないんじゃなかろうか。そうしないと、結局ツケがたまって、やばいことになるんじゃないだろうか。
不安の根元は、温室に登れないことじゃなくて、温室に登れないことがわかってないことの方だろう。温室に登れないことがたぶんずっとわからないし、納得いかない、納得いっても、すぐ忘れて、温室になんの疑問ももたないで乗っかろうとするのだ。
すぐ忘れて、温室に乗っかろうとするんじゃないか、という不安があるので、とにかく、なんにだって乗っかれないと思うようにしてきたんだけれど、温室に登れると信じちゃってる、すぐ忘れちゃって信じちゃうということの方に注意を向ける必要がある気がしてきた。
父親の運転の仕方がひどい。
ものすごいスピードをだすし、おまえ、アクション映画かよ、というくらいに、道を大袈裟に曲がる。彼の車に乗ると何度も死ぬんじゃないかと思う。
よくよく考えると、わたしは父親にそっくりだ。
彼の運転の仕方はなんど注意されてもかわらない。
たぶん、温室に登れると信じちゃうのも、同じだろう。
そっから、はじめないと、たぶん、よくない。