日記

左の眼球がぶよぶよになっていて、気持ち悪い。
なんかここ最近、なにかが肌に触れるとじんましんみたいなのができる。
まあ、季節の変わり目にはよくあることなので、過ぎ去るのを待っているのだけど、病院行った方がいいんだろうなー。病院キライ。

土日は、うちの大学で、日中交流子ども学シンポというのがあり、スタッフとしてかりだされていた。自分は自分で水曜日までに仕上げなきゃいけない書類が3つあり、木曜日はゼミで発表しなければならず、いっぱいいっぱいなところに、二日とも大幅に時間が押し、青の背景に水色の字という衝撃的なパワーポイントを目の当たりにし、通訳は危うく、正直ものすごく疲れたのだけど、いろいろと考える機会にはなった。今の時期に、あまり中国に絡む話をしたくないのだけれど、やっぱりいろいろ考えたからメモしておこうと思う。全部、推測なのだけれど。。
基調講演は、NHKで放送された「小皇帝の涙」という番組が中国の教師たちにどう捉えられたのか、そしてなぜそのように捉えられるのかについての講演だった。「小皇帝の涙」がどのようなドキュメンタリーかというと、中国のある小学5年生の生活を追ったもので、子どもたちは小学生のうちから苛烈な競争におかれているんだというもの。子どもたちは毎日友達と放課後遊ぶこともなく、まっすぐ家に帰り、膨大な宿題に追われる。成績のもっともよい子が学級委員に選ばれ、遠足の班分けは子ども自身によって成績に基づいて行われ、仲間はずれにされている子どもが、自分で成績がよくないから仲間はずれにされる、と言う。親は、低学歴のためにリストラされたり、自営業で叩き上げてきていたりするので、とにかく子どもが高学歴ではないと将来がないと思っている。そのため、親は再三そのことを子どもに言い、日本で言う職安につれていき、どれだけ就職が厳しく、勉強にいそしむ必要があるかを説いたりもする。子どもはその状況にストレスを感じており、先生はそれをかんがみて、親を学校に集め、子どもが親に言いたいことを言わせる。子どもは親に間違えるとつねられる、とか、どうしていろいろな考え方の人がいるのに、他人と比べるのかと親に対して口々に言う。ここで、大体、日本人だと、親が子どもの言葉に対して多少でも心を動かすということを想像すると思うが、それに反して、親は子どもが言っていることをまったく容れようとしない。他人と比べなければどうして自分のレベルがわかるの?大人も会社で同じように成績をつけられるのだから仕方ない。愛しているから教育しているのだ。と言う。大体ドキュメンタリーの内容はこのようなものだ。それに対して、中国の教育学者の先生が、それぞれの見方によって、意見が異なるということを講演していた。教育学者としてみれば、状況を改善するべきだと思うが、生態学的にみれば、至極当然な状況があるだけだし、政治的に考えれば、国策として当然子どもは厳しく教育するべきだというようなことだ。そして、子どもも、大人になってから勉強させなかったことで親を責めるかもしれない、ということ。当然、見方によって異なっていることが納得できることだが、日本人である私から見ると、問題は勉強させるかさせないか、ということではなく、どのように勉強させるのかということであるように思う。そして、あまりに苛烈な状況におかれた子どもが将来本当に国家の望むような人材になり得るのか、というところが危惧されるということなのだ。しかし、中国の方にはあまりそのような視点はいまのところないようで、そこにものすごい隔たりを感じた。どちらが正しいということではない、実際に中国には中国のやり方があり、それはもしかしたら中国ではうまくいくかもしれないからだ、そこらへんのことは、日本人として、確固たることは言えない。ただ、ものすごい隔たりを感じたということだ。教育はなされるべきである、ということは日中共通するところだが、中国での教育というのは厳しいものである、というところは中国では当然のように受け止められている可能性がある。
また、その講演に対して、日本人のシンポジストから、「どうしてそれだけ苛烈な競争をしているのに、東洋的な考えであるところの団結が可能なのか」という質問がでたが、わたしも同じようなことを感じた。しかし、おそらく、日本人が考えているところの団結と、中国人が考えているところの団結そのものに隔たりがあるのではなかろうか。日本の団結は競争とは矛盾しやすいが、中国ではそんなことはないという可能性もある。
もうさまざまな点で、中国と日本は隔たっている。
もっとも印象的だったのは、中国の方が、再三、これは西洋の思想、これは東洋の思想、このような考え方をする人は西洋的な考え方をもつ人、このような考え方をする人は東洋的な考え方をもつ人、といったような言い方をすることだった。西洋の考え方と東洋の考え方(=中国の考え方、儒教的な考え方)を、個人主義集団主義といったような形で、明確に区別して、中国には東洋的な考えがあるので、西洋的な考えとは異なる、西洋的にみればこうだけれど、中国ではこう、と言う。わたしはこのことにものすごく違和感を感じた。なぜなら、日本人であるわたしは、自分の考えのこれは西洋の考え、これは東洋の考え、といったような感覚はほとんどないし、日本人は、あまり、思想の源流、この考えは中国から伝わってきた、この考えはアメリカの影響を受けている、などとは考えていないのではないか。中国の方は、日本人のことをかなり西洋化していると捉えていたようだった。しかし、当の日本人はそんな感覚は強くもっていないような気がする。日本人てなんだ、という探索心すら希薄なのではないか。しかし、中国の方は、つねに、自分の源流はなんなのか、ということを考えているようで、そのことで、自分の民族の独自性ということを確認し、主張している感覚をうけた。むしろ、いまの中国は儒教やら東洋思想やらということよりも、強く共産主義というものに支配されているのではないかとわたしは考えるが、今回、そのような話は一切でなかった。まあ、逆に当然なのかもしれない。もしかしたら、中国の方が「西洋の考えでは」こうこうこうあるべきです、というような言い方をするのは、自分は今の状況は望ましいと思っていないけれども、それを直接言うことが社会的に難しいのかもしれないから、そのような言い方をして、情報だけは示しておこうということなのかもしれないとも思った(無意識的であっても)。どちらにしても、日本人のわたしからみて、中国の方が必死で民族的なアイデンティティーを保とうとしているのではないかと感じられた。しかし、日本人にはそういう感覚はおそらくない。ないことがいいことだとも思う。わたしは父が学生運動をずっとやっていたこともあって、考え方としては、左寄りだろうが、左だろうが右だろうが、同じ人間なのに、恐ろしいまでの権力を何人かの人間が握っていて、ほかの人間は彼らがすべてを保障し救うものだと考えているような状況が感覚としてまったくわからないし、そのような状況下にはいたくない、それだけだ。日本ではそのような状況ではないし、民族的なアイデンティティーの危機はいまのところ感じていない。でも、そのことに恐怖も感じる。日本人のシンポジストが自分の学生にドキュメンタリーを見せたら、一人くらいは中国と今後競争していかなければならないのに、日本は今のままでは負けるだろうというような感想をいうかと思ったが、だれもそんなことは言わず、日本に生まれてよかったとみな言っていたというようなことを言っていた。わたしも日本に生まれてよかったとも思ったが、逆に日本は今のままだと大変なことになりそうだとも思った。中国に負けるということではないが、日本人が中国人を批判するとき、そこに根拠がある場合ももちろんあるが、ない場合もある。正直、日本がアジアをリードしている経済大国という事実はいまは消え去っていると思うし、今後も消え去っていくと思う。しかし、おそらく、日本人が中国人や韓国人を感覚的な部分だけで見下すような態度は逆に育っていくような気がする(もちろんそれだけじゃないが)。わたしは、中国と仲良くしなきゃとか、中国万歳とか言う気はさらさらないが、日本なんてもはやどんどん世界の中で重要な国ではなくなっていくのにも関わらず、それに反してアジアにもアメリカにも反発心が強く育っていくことで、ものすごく孤立した存在になっていくのではなかろうかと思う。それはそれでいいのかもしれないが、もはや食べ物ひとつとったって日本だけではなんにもできない状況になっているのに、この先、どうなってしまうんだろう、とわたしは単純に怖くなる。今増えつつある、中国キライ、韓国キライ、日本ステキという盲目的な非常に感覚的な意見はどんどんひろがり、けれど、日本は国としてはどんどん力を失っていくというような状況が純粋にわたしは怖い。気づいたら、日本なんて国はなくなって、日本人はいなくなってしまってるのではないか。だからといって、こうしたらいいとはいえないが、今回その不安がさらに増した。最後に、中国の方が「日本は中国文化をとりいれ、その後西洋文化をとりいれ、それでは今から東洋をとるのか西洋をとるのかどちらですか?」と質問をしていた。この質問はとても恐ろしいものだと思う。日本はどっちをとるんですか?中国?アメリカ?と中国からは見られているということだ。しかし、当の日本人はそんなこと思ってもないだろうし、そんな風にみられるのは不本意だと考えるだろうし、中国なんかとるかバーカ、アメリカなんてキラーイくらいのことなのだ。しかし、中国としては日本には恩讐が強くあると思っている。恩、と、仇。どっちにしても上から目線だ。教えてやった、のに裏切りやがった、という感覚だ。そしてそれはものすごく強い、ということが昨日今日で実感された。しかし、日本人にそれに抗うだけの強い感覚があるのか?わたしにはあるようには思えない。あきらめたくはないが、ただただ怯んでしまう自分を感じた。どっちにしても、日本というのは非常に特殊な国、世界でも稀に見る国になったと思う。それはいい意味でもわるい意味でも。いまから鎖国なんてできない、だからグローバル化のなかでやっていかなきゃいけない、そうすると今やその特殊性が恐ろしい方向に暴走していかないとも限らない。中国は自由を保障しないからキライだといいながら、日本が昔のように天皇万歳みたいになり自由が保障されなくなるというようなことだって実際起こりうるのではないか。わたしは毛沢東であろうが天皇であろうがレーニンであろうがゲバラであろうが、ある人間を神様みたいに崇め奉り全幅の信頼を寄せ、そしてそのある人間はわたしの名前もしらないというような状況はまっぴらごめんなのだ。しかし、そういう風になってしまう未来がきてしまうのではないかなあと、わたしにはそんな気ばかりしてしまう。考えすぎということはないと思う。


そんな気持ちをひきずったまま、映画「モンゴル」を見に。
映画自体は思ったより全然おもしろく、音楽と風景の撮りかたがとってもよかった。衣装もほどよく抑え気味で新鮮だったし、アクションの撮り方が香港映画とも中国映画ともおそらく日本映画とも違っており、けど、ものすごく丁寧につくっていたので感動したのだった。
でも、テムジンを浅野忠信が、ジャムカをスン・ホンレイ(中国の役者さん)がやっていたことで、また、ちょっとひっかかってしまった。
というのも、わたしはスン・ホンレイが好きだし、浅野忠信よりもスン・ホンレイを見ることのほうが慣れている。スン・ホンレイはテムジンに対する親愛も憎しみもからだ全体で、すべて表に出して演じる。けれど、浅野忠信はそれを受け流すように振舞う、もっといえば、そこに存在しているだけなのだ(そのようにみえる)。わたしはスン・ホンレイを見慣れているし、日本映画よりも香港映画や中国映画をたくさん見ているから、どうしても、浅野忠信の受け止め方に「え?」と思ってしまう。多分、シンポのあとではなかったら、それは役の特質を表現しており、まあ、陳腐な言い方をすれば、静と動、青と赤、みたいな対比がある、という受け止め方ですんだと思うのだが、もう、浅野忠信が日本人としてそこにいるので、中国人としてそこにいるスン・ホンレイとかみ合わないように見えてしまう部分が何度かあってちょっとつらかった。シンポの中で、日本人のシンポジストの方が「日本人は大人になることは人に迷惑をかけないようになることだけど、中国人は俺に迷惑をかけてくれ、俺もお前に迷惑をかける、というのが大人だ、だから中国人からみると日本人は冷たくみえるときがある」ということを言っていたが、もうばっちり、そういう風に見えてしまった。映画の中ではテムジンとジャムカはアンダから敵同士になるという経緯をたどっているので、わたしとしてはお互い丁々発止でやってほしいし、当然それを予測してみるのだが、浅野忠信はまったくそういう存在感ではないし、ジャムカによって精神的に揺り動かされたりはしない(ようにみえる)。そして、浅野忠信からわたしの求めるような強さのオーラが漂ってこないので、どうしても、テムジンとしての資質ではなくて、浅野忠信浅野忠信であるがゆえに、関係性がみえてこないように感じてしまったのだった。映画自体はおもしろかったので、わたしが中国人でも日本人でもモンゴル人でもなかったら、もっと楽しめるのだろうになあと思ったのだった。。