紙ピアノ

紙ピアノ

伊津野さんから、歌集をいただいた。
いただいたその日の夜に、一気に読んでしまった。
もともと、朗読で聞いていて覚えている歌も多く入っていて、
その声や、写真の中の伊津野さん、そして上下に伸びる文字列が、
絡まりあって、とても不思議な感覚だった。
短歌というのは、あらためて糸のように記憶されるものなんだな、と思った。
詩に比べて、自分のからだのなかに一本垂れ下がっているような、
そして、それをからだのなかの指でひっぱりだすときの、
皮膚のよじれ、そういうものも含めて、感じられる。
とても、不思議だ。
飲み込んだ後、それをなんども、ゆっくりと、ひきだして、
また、のみこんで、そのようにことばが存在できるということが、
実際あるんだなと、だからこそ、詩や歌があるんだと改めて思った。
全部読み終わって感じたことは、あるく、とか、いきをする、とか、ねむる、
とか、そういうせいかつ、けれど、それは、実際でもあって、文字や、
言葉そのもの、まさにタイトルの紙ピアノ、
ピアノというフォントと、紙に描かれたピアノ、そしてピアノの音、
それが、手を絡めあっていくような感じ。
決して、うまくいえない感覚がここにあって、
そして、それが、詩や歌の発露というか、角度なんだろうと思う、
そして、それは、やはり、わたしがずっと信じていて、
信じていて、あらためて信じかえす瞬間なのだと思う。
それは、あるく、とか、いきをする、とか、ねむる、とか、
それら、ふだん、わたしがしていること、以上で、
けれど、わたしがしていること、そのもので、
土に接する、伊津野さんの手足と、
たちのぼる声やことばと、
まったく同じ意味を持って、
わたしのなかのもうひとつの皮膚をかすめていくことは、
とても、しあわせな、そして、しずかな、
瞬間なのだと思う。


死のうかと思う坂道死ぬるならそれまで生きんと思う坂道


もろき骨やわき腹もつそれゆえに高く掲げよ魂の角度


                        伊津野重実



ほんとうに、この歌集が出版されてよかったなと思う。
おめでとうございます。