わたしと(の)K-POP 佐野狂いまで ④日プと佐野狂い

    私のPRODUCE101JAPAN視聴は、本当に軽くスナックをつまむような感覚ではじまりました。常にプデュをみていたので、Xも見るつもりだったのですが、MIXNINEで精神が摩耗しすぎていたので、MIXNINEに出演していた子がXで号泣しているシーンをみかけて、非常につらい気持ちになり全く見ることができませんでした。ですので、日本でプデュをやると知って、これなら気楽な気持ちで見られそうだぞ、と思いました。というのは、私はいままで日本のアイドルに興味を持ったことがなかったので、完全にそのときだけのものとして楽しめそうだと思ったからです。

    私が日プではじめに興味を持ったのが今西正彦くんでした。Twitterで彼のダンス動画をみて、しなやかなダンスに興味をひかれ、その後宣材写真や、過去のダンス動画などをみて、ダンスも自分のアピールの仕方もとても良いなあと思い、最初は彼を中心に見ていました。また、彼のダンスをきっかけに、主に韓国でのワックのダンスバトル動画をたくさん見るようになり、ある特定のジャンルの成熟というのを知って興奮しましたし、今西くんがそのようなジャンルをバックボーンとして日プに出演していることにも希望を感じました。私が見た中で特に印象に残ったバトルの映像をのせておきます。

 


Calin vs. Jemin - Round of 16 @HOLIDAY IN WAACKING 10th ANNIVERSARY


BABY ZOO vs JEMINㅣWAACKING Semi Final ㅣ2019 LINE UP SEASON 5


SHOW DOWN VOL.5 결승 권혁진 vs wizzard

 

    その後、今西くんのほかに私が主に見ていたのは、ジョニー・トーの映画に出ていそうな雰囲気の河野くん、常に仕事でやってます感が漂う佐藤(景)くん、ダンスがプレーンで心地よい山田(恭)くん、WOWに少し顔が似ている高野くんあたりでした。佐野くんに関しては、同郷だったこともあり、へー、山梨の人いるんだ、くらいの気持ちで、自己PR動画もツカメのチッケムも見てはいました。自己PR映像をみたときの印象は、「不思議なお顔立ちだな」、ツカメのチッケムでは、「上手なのでしょう、しかし、やっぱり、不思議なお顔立ちだな」でした。あとは、初回公開前のカウントダウン映像の印象は、「端っこで地味によい動きをしている」でした。番組がはじまってからは、今西くんのダンスを中心に見つつ、河野くんを脳内黒社会映画に出演させつつ、高野くんのWOW味を楽しみ、とても軽い気持ちで楽しんでいました。軽すぎて、わりと失礼な見方もしていた気もします。また、今西くんが正当な評価をされてほしいなあ、という多少の正義感を持ちながら見ていました。

    佐野くんに特に注目するようになったきっかけは、Twitterで見かけた、w-indsのイベントで佐野くんが踊っている映像です。そこでは、ツカメのチッケムの印象とは違って、とても滑らかな動きで踊る姿がありました。あら、これは、良さそう、と思い、そこから投票するようになりました。同時に他の過去動画も見たりして、興味が高まりました。佐野狂いに入ったのは、ポジション評価のhighlightでした。その時点で佐野くんへの興味がそれなりに高まっていたので、チッケムが公開された時点で、すぐ見ました。そのダンスがまず非常に音楽との調和がありとても良く、highlightで踊る他の子のダンスが音にそっていないような気すらして、少しずつ狂いが生じます。と、同時に、彼が、「淡々とこなすような踊り方をしちゃうので、(をら)見ろよ、俺を、みたいな感じが、あんまりまだちょっと掴めてなくて」と話していたのを見て、WOW中毒である自分がハマるべき真のWOWスポットはここだったのか!!!と、感情が爆発してしまい、その夜はほとんど眠れませんでした。WOW中毒により、ただただ素晴らしい身体の動きをアイドルのダンスに求めるようになっていたので、ここで完全に狂いが生じます。ですから、ここからは時系列を追わずに、私の狂いについてただただ書こうと思います。WOW中毒が並行しているため、WOWの話がまたでてくると思いますが、ご了承ください。WOW中毒については、③に書いています。

 

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PRODUCE 101 JAPAN|2組|SEVENTEEN♬HIGHLIGHT@#4 ポジションバトル

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   私が日プでの佐野くんのダンスをみて、感じたことはたくさんありますが、まずは、あらわれる自我の薄さです。彼の動きには、動きである以上の意味がないように見えました。当然、振り付けには意味そのものを示すような動きがあり、彼の振り付けにはかなり明らかな意味性を持つ動きもあります。ですが、その意味性が動きの質にまったく干渉しない印象で意味性が非常に強い動きさえもただ動きとして揺れなく存在するようでした。そして、動きから音が聞こえる気がしました。彼のダンスをみていると、音楽のすべての音が粒だって聞こえ、ああ、これは、こういう曲だったのか、と多くのことに気づくようでした。特に最も後景にあるような音が遠くからしかしはっきり押し出されてくるように聞こえるのでした。彼の見せたいものは彼自身でも身体でも演じられる感情でもなく、動きであり、その動きは何よりも音そのものを現していると思いました。そこからは彼の身体もなくなるような、ただただ動きがあらわれては消えあらわれては消えする、インスタレーション作品のようでした。

    また、彼のダンスから私は確固たる秩序を感じました。彼は普遍的な、宇宙すべてに及ぶような秩序にしたがって踊っているように感じました。highlightのときに、トレーナーから、技術にともなう表現力がない、と言われ、その後、表現力が上がり良くなったというように言われていました。ここで、表現力というものがなんなのかはっきりとはわかりませんが、もし、それが、私がアイドルにずっと見ようとしてきた、どのように自分を押し出すか、ということであるのならば、彼はそれを最後までしなかったと思います。もしくは、できなかったのかもしれません。普遍的すぎるものが、すでに技術に存在しているからです。彼は、最後まで、技術にこだわり、技術で現わそうとしたように感じます。秩序が高まればそこに自ずと表現されるものがあります。そして、そこに現れるのは純粋と美だと感じます。私はちょうど日プと並行して何の気なしにハイデガーの「技術とは何だろうか」を読んでいたのですが、そこに書いてあることがすべて佐野くんのダンスのことを言っているように感じられて、はじめてハイデガーをスムーズに読めました。いままでそこにある言葉の存在する次元がわからず理解が及ばなかったのですが、私の狂いと高まりのため、はじめてマッチしました。その中で、次のような事が書かれています。「技術の本質は、技術的なものではありません。ですから、技術について本質的に省察し、技術と決定的に対決することは、一方では技術の本質に親和的でありながら他方では技術の本質とは根本的に異なる領域において、生ずるのでなければなりません。そのような領域こそ、芸術にほかなりません。」佐野くんが日プを通してしたことは、これなのではないかと思えてなりません。彼の技術に向かう意思、そして、その技術を与えられた課題のなかで最大限発揮しようとする際の道筋、それは常に一本の線のように細く強く強情で、絶対に曲げられないという感じがしました。それゆえに、演じる部分や自分の感情的な揺れがダンスそのものに漏れることがほとんどなく、あったとしても、それが彼の動きには干渉せず、乖離して存在するように感じました。一方で彼の技術に向かう強靭な意志が説明しきれないものを動きのなかに存在させ、そこに芸術があったと思います。もちろん、彼の華奢な身体つきやもともとあまり表情が変わらないというような特徴からくる印象も強いでしょう。ですが、やはり、私は、彼の技術に対する意志や誠実さの方を強く感じとり、それが非常に魅力的でした。人が学ぶのは、環境に適応するためです。環境をどのように捉えて適応するのかが個性です。私は、彼から、環境を純粋なものとしてとらえ、そこから、まっすぐに学ぶ、というプロセスを見せてもらった気がします。

   私はWOW中毒になってから、とにかく宇宙自然宇宙自然といいたがる傾向にあり、WOWに宇宙や自然を感じたように、佐野くんにも宇宙や自然を感じました。当然ですが、佐野くんとWOWは違うところが多くあります。まず、私がWOWを見るときほとんどお腹をみています。私にとっては彼のお腹こそが彼の動きが発せられ還っていく宇宙だからです。私がWOWに感じる宇宙は身体としての宇宙です。身体に深く潜っていけば、そこには構造があり宇宙があります。彼をみていると、神に選ばれ祝福された身体だ、と感じます。それほど驚異を感じる身体そのものと巡りがあります。ですが、佐野くんをみるとき、私は彼の周辺の空間をみています。彼の動きが身体というよりは空間から生じるような気がするからです。彼の動きがそこに宇宙をつくり、あるいはそこにある自然に溶け、あるいは鳴っている音を身体をこえて放ち、無限に広がっていくものがあるように感じます。佐野狂いによって、私は頭の中で佐野くんを踊らせるようになりました。私がWOWのダンスを思い出すとき、私の中に小さなスクリーンができてそこにWOWを映して、その前に小さな私が座ってそれを見ています。ですが、佐野くんは本当に私の頭の中で踊っているようでした。私はどうにか彼にデビューしてほしくて願かけのために彼のデビュー公約、リクエスト曲でダンスする、にのっとり、リクエスト曲のプレイリストを作りはじめました。私はダンスミュージックをあまり多く聞くほうではないのですが、なんの音楽を聴いても佐野くんが頭の中で踊っているようになったので、どんどん曲が増えました。プレイリストには、私の中で運動性を強く感じる曲、動きやダンスを象徴する曲が含まれていますが、とにかくすべての音楽で踊っているので、曲はなんでもよいという結論にいたりました。WOWが身体に底のない宇宙を感じさせるのに対して、佐野くんはどうやら遍在し拡散する宇宙を感じさせるようです。私の中では、WOWに対してはより身体性、物質性が高い「中毒」で、佐野くんに対しては、より形而上学的であり「狂い」です。

 

 

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    彼のステージが日プで4つあり、私がそこで得る最終的な印象はかなり違います。ツカメでは、拘束と自由の間にある真空のような場所を感じさせますし、highlightは、音というより曲のもつ周波との調和とそこからつながっている自然、ひろがりつづける水紋や、海の底からのぼってくる水泡、風に揺れ落ちる葉の軌跡といったものを感じさせます。why?では、彼の輪郭の内を音と呼吸がめぐり、それが動きとして広がっていく感覚があります。blackoutは、マリオネットの初恋のようで、高尚と陳腐を動きだけで立ち上げているような気がします。どのステージでも常に彼の動きは大いなる秩序にのっとっているように感じられるのに、です。常に彼のダンスには背反があり、そのどちらともが残らず、美しさだけが残るような、すべてを保ったまま遷移するような、球体が空中で何重にも連なって重なって別々にしかし協調して動いているような、そんなセンス・オブ・ワンダーがあると思います。そして、常に音を現しているので、曲によって最終的な印象が異なり、どのような背反が強調されるのかも異なっているのではと感じます。私が佐野狂いに入って約2ヶ月、本当に彼のステージ上での存在感、彼のダンス、彼のパフォーマンスのことばかり考えてきました。ですが、どうしても、わからなさ、及ばなさがあります。そして、おそらく、それが私にとっては一番の魅力なのです。私の視線も、国民プロデューサーの喧騒も、プデュの残酷さも、それらのどれもが及ばないところにあり、また、それが、確かすぎるくらいに確かに存在しています。わからない、及ばない、いうことが、私に信じることを可能にしてくれます。そのような意味で、佐野くんには類稀なる才と力があると強く感じます。

最後に、またハイデガーを引用したいと思います。

 

大地と天空、神的な者たちと死すべき者たちの織りなす単一性を出来事として本有化するこの反照-遊戯のことを世界と名づけましょう。世界が本質を発揮しているのは、世界が世界することにおいてです。この同語反復的な言い回しが言わんとしているのは、世界の世界するはたらきを、他ならぬものによって説明することも、他なるものにもとづいて根拠づけることもできない、ということです。

………

世界の反照-遊戯は、出来事として本有化するはたらきの輪舞です。それゆえこの輪舞は、輪かざりよろしく四者をはじめて包み込みもするのではありません。輪舞とは、反照させては遊戯しながら組み合う、競技の輪[Ring]です。出来事として本有化しつつ、競技の輪は、四者をそれらの織りなす単一性へと明け開くのです。きらめきつつ、競技の輪は、四者を固有化しては、それらの本質の謎のうちへと明け開くのです。

 


PRODUCE 101 JAPAN|[NO CUT ver.] ♬Black Out@コンセプトバトル


    彼は最終的な順位21位で、脱落してしまいました。彼の練習でのダンスをみるにつけ、彼のステージが常に素晴らしいであろうと感じ、本当にデビューして何度も同じ曲で踊る彼の姿、様々な曲で踊る姿を見たかったです。おそらく、そのたびに、わたしは驚異を感じるでしょうし、背反がぶつかり合う美しさをみるでしょうし、正しい動きと動きの間で揺れる人をみるでしょう。わたしはそれを何度も何度も見たくてたまりません。彼のステージがご用意されることへの渇望が強すぎて、毎日気が気でなかったです。彼のステージでの在り方には恐ろしいまでの及ばなさがあるのに、なぜ、彼の行く末が我々の投票などで決まるのか、という思いが強くあり、身体が二つに分裂しそうでした。プデュ自体も様々な割り切れなさ、すり抜けて商業的に成果があればよい、といったような匂いも残したように思います。そういう意味でも、大きな狂いのなかにいたのでしょう。

    デビューメンバーも決まり、彼のSNSでの感謝のメッセージもみて、私の中でも区切りがつきました。夏休みが終わった感じです。佐野くんは私の自由研究でした。成果は特にありませんが、光がありました。佐野くんの才能と鍛錬、純粋な探求は、佐野くんを決して裏切らないと思います。だからこそ、また、ステージが必ずあるでしょうし、ステージがあれば、私にも、また見られるでしょう。そしてまた、そこに光があるはずです。

 


    私は、この文章を書いたことで、どうやら、少し心が落ち着き、彼の次のステージをゆっくり待てるような気がします。文章を書いて残しておくことには一定の力があるようです。日プに関わったすべての方々、おつかれさまでございました。みなさんに幸がありますように。

 

 

 

 


  

わたしと(の)K-POP 佐野狂いまで ③ サバイバルとA.C.EとWOW中毒

2016年の半ば、自分にとっては人生で3本の指に入るしんどいことがあり、今までの人生が、全部ひっくり返されたかのような、立っている場所もないような、非常にハードな精神状態に突入してしまいました。自分に対するなけなしの信用ががたがたと崩れる音がして、そこから特に2年ほどは、日々を終わらせるだけのことがやっとの状態でした。そして、今もなかなか回復にいたれない部分があります。

 さて、ということで、また、深いハマりがやってくるタイミングが訪れたというわけです。2017年、特に、ヤバい精神状態と仕事での責任の変化が相まって、ゾンビのようになっていたそのとき、PRODUCE101S2を見始めました。ここで、私は完全に、分量がないけど健気に頑張る日本人高田健太に自分を憑依させて番組をみていました。彼がアイドルとしてどのような存在なのかということとは関係なく、限りなくハードな状態でサバイバル番組に挑む、また、おそらく、デビューできないであろうという予測も込みで、自分のハードさと彼の置かれた運命のハードさを重ね、自分の現実をスライドさせました。ですので、ここで、プデュにハマったのと同時に、そこに、ステージ上での輝きを見ているわけではなかったということです。歌やダンスをそこに見出したわけではなく、ただハードな状況にある若い人たちをみていました。それは自分がハードな状態にあったからにほかなりません。高田健太に自分を憑依させつつ、私は、ヒョンビンのぎこちなさと、キム・ヨングクの容姿にハマり、ステージそっちのけで、そこと周辺とで行われる、凄惨な祭りを眺めました。それは、北斗の拳にでてくる、人々が巨大な鉄板にのせられて熱せられるシーンを彷彿とさせ、それを止めるケンシロウはあらわれない、という感じでした。私も積極的に鉄板に乗って、自分のハードさとプデュのハードさを一生懸命踊らせたと思います。

   高田健太に自分を憑依させていたので、コンセプト評価で彼がいたグループが一位になりMCOUNTDOWNに出演したとき、録画をしてまで通しで見ました。そうしたら、番組の冒頭にA.C.Eというデビューしたてのグループが出演していて、ものすごくキリキリした曲とダンスを披露していました。これが、A.C.Eとの出会いでした。ほかのグループにはない、極端さがあり、興味をひかれ、そこから、彼らが公開していたコンテンツを見るようになりました。はじめて彼らをみたとき、私はTwitterでこうつぶやいていました。「自分のセンスのあいかわらずさが残念」。

   ここから、私は少しずつA.C.Eの沼に入っていきます。彼らの映像などを色々みていくうちに、どうやら事務所にお金がなさそうだということがわかりました。デビュー時、曲は一曲だけ、CDは限定、活動のメインはバスキン(路上ライブ)、デビュー曲はcactus、ずっと孤独でいて最後に花を咲かせるサボテンに自分たちをなぞらえた曲で、MVでは冒頭目隠しされているところは、練習生時代を表現していて、最後は地下から光のあるところに走って出ていって夢を叶えるところを表現している、、、このように並べてみると、近づいてはいけない地帯だということがわかります。が、学生時代にインディーズバンドを追いかけていた身としては、彼らの闇雲ともいえるドブ板選挙のような活動は、なんとなく、馴染みがあり、他のグループと比べて少しズレたセンスにも独自性というポジティブさを感じて、見られるものを順番にみていきました。また、同時にTwitterなどでも情報を探しましたが、日本での認知はほぼなく、普段からアンテナを高く張っているであろう数人がおもしろい楽曲として取り上げているか、音楽番組の収録の際のペンミやバスキンに通っている数人が、運営への不満やメンバーと話した様子などを生々しく話しているだけでした。正直、これが、売れていないアイドルの世界か、、とひるんだのを覚えています。

 


A.C.E(에이스) - 선인장(CACTUS) MV


뮤직뱅크 Music Bank - 선인장 - A.C.E(에이스) (CACTUS - A.C.E).20170526

  

 

 そんな中で、あるバスキンの映像をみていて、1人だけものすごく自然な動き、一切無理のない動きでダンスをしている子がいて、目をひかれました。(デビュー曲でのダンスはあまりにもきりきりしていて気づきませんでした)それがWOWです。(以下に貼りつける映像、ベージュの服がWOWです)

 


Chris Brown - Fine China Dance cover Busking in Hongdae

 

 そこから、私はWOWのダンスを狂ったようにみはじめます。その時点では見られるものは多くなく、バスキンの映像、カバーダンス映像、ワンミリオンスタジオでの練習映像くらいでしたから、それぞれおそらく100回以上は見たと思います。彼のダンスは、見れば見るほど、私にとっては奇跡的なものでした。まるで身体の中心にブラックホールのようなものがあり、彼の身体の動きは全てそこから発せられ、そこに還っていくように感じられました。また、彼の胸から腹部にかけては、本当に彼の身体の中を波や風が通り抜けているのではないかと思うほど滑らかに動くのでした。彼の動きはどんなに激しい振り付けの中にあっても急いでおらず、音にそうように存在し、彼のお腹はまるで世界の中心、宇宙の中心のように、どんなに手足を動かしても、お腹そのものが波のように動いても、少しの不安もなく同じ場所に存在し続けるのでした。まるで、彼自身がお腹に地球そのもの宇宙そのものを宿しているようで、それは本当に深淵にも感じられました。

 

 

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170915 A.C.E(에이스) 한강공원 버스킹 #love more(Dance) WOW직캠

 

   私にとって、アイドルのダンスというのは、常に、彼らがどのような存在としてみられたいかということを示すものであり、彼らの葛藤が無意識的にあらわれる装置のようなものであり、まさに彼らの自我があらわれる場でした。しかし、WOWのダンスからはそういった自我がほとんど感じられず、かといって、体力的な消耗があらわれることもあまりなく、彼の動きのモチベーションがどこからやってくるのか、よくわかりませんでした。けれど、彼の動きは本当に自然で、常に身体の各部位の動きが完全に調和しており、火山から流れでる溶岩のようにただ物理にしたがって生じる、自然現象のようで、そこに、私は驚異と快感を感じました。彼のダンスをみているとき、いままで常にあった、アイドルのダンスから感情の流れや、ぎこちなさ、自分を押し出そうとして生じる無理のある身体の動きを、どうにかして見出そうという視線が消え失せ、ただただ、音にそった驚異的な身体の動きをみて、すごい、すごい、と思うだけになるのでした。

  一方で、彼のダンスを見ていると映画「ヒストリーオブバイオレンス」を思い出します。昔ここでも感想を書いています。ギャングから足を洗い、平凡な家庭における夫、父として生活している主人公のもとに過去からの来訪者があり、そこで自分の生活を守ろうと彼らと対峙するという映画です。この映画におけるアクションには陶酔も迂遠も一切なく、ただただ身体を破壊するための最小限のものです。そして、それを行ったあと、主人公は、そこになんの感慨も持たず、一方で非常に戸惑っている様子をみせます。彼と彼の動きは身体としては異常に直結しているのですが、一方で彼の意思を置き去りにします。そこには、彼自身が抱える、わからなさ、があります。WOWのダンスからも、わからなさ、を感じ、そして、彼自身にも、わからなさ、があるように感じ、ですが、確固として、そこに、身体の動き、それも驚異的な、方向をもたない、あるいはあらゆる方向に働くような、動きがあるのです。

 

 

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 彼のダンスを見つけたことで、私のアイドルのダンスをみる視線が完全に変わってしまい、他のアイドルのダンスがほとんど色褪せて見えるようになりました。完全にWOW中毒です。もはや、アイドルのダンスという意味では、WOWのダンスしか見るものがなくなったような感じでした。通勤中、深夜眠れないとき、休憩時間、私はひたすら彼の踊っている姿を見ました。どうにかして、彼の動きについて知りたかったし、彼の動きについて考えたかったし、なによりも彼のダンスを見ていると、わからないまま、方向性を決めないまま、こんなにも美しいものが人間に存在できるのか、と強く感じ、私のその時の状況においては、大いなる救いでした。そこには、人生のなかで常に敏感に自分にも他者にも感じていた、「私がお前たちをいまから見てやろうか」という態度も、「お前たちに俺を見せつけてやろうか」という態度も、まったくなく、かといって、なにか本質的なものを取り出して表現しようとする作品性もなく、ただ、ただ、素晴らしく動く身体があり、ただ、ただ、純粋な高揚と快感がありました。私はWOW中毒により、アイドルのダンスではWOWが至上のものであると強く信じるにいたり、年末の歌謡祭などを見られなくなってしまいました、なぜなら、WOWがいないからです。なぜ、ここにいるべきなのにいないのかと思ってしまうからです。ですが、私も冷静な頭が少しだけは残っていますので、その頭で考えれば、私が長年アイドルのダンスにプレゼンスや彼らの自我を見てきたように、衆目をひくためにはそれこそが必要なのです。ですが、同時にWOWのダンスはアイドルという場でなければ見られないでしょう。彼がアイドルを志さなければ彼がダンスをすることはなかったでしょうし、ダンス作品としては彼のダンスはむしろ欠如があるからです。この矛盾すらも、私にとっては美しい運命のように思えます。そういう意味で「中毒」なのでしょう。


 WOW中毒と同時に、インタビューやドキュメンタリーなど、彼らの人間性が垣間見えるものも見始めました。そこで、彼はあまり話さず、何かを見るのが好き、と言っていたり、猫が見てきて怖い、と言っていたりと、不思議な雰囲気を持っていました。A.C.Eは他のメンバーのキャラクターが非常にわかりやすく、真摯で少しドジなところもあるステージではかっこよく存在することに注力するリーダージュン、努力の結果、踊れるようになったという道筋がはっきりみえる踊り方をする困り顔のメインボーカルドンフン、僕はダンスが得意で誰にも負けないんだという意思が常に身体の動きに吹き出しで出ているようなジェイソン(現在は本名キム・ビョングァンで活動しています)、愛嬌があり、すべてをそつなくこなせ、最も気配りができるマンネチャン、という構成です。その中にあって、WOWはなんだかふわふわして存在していました。ジェイソンとWOWがともにダンスを得意とするメンバーという位置づけで、2人でダンス動画を撮ることも多く、彼らのダンスの対比が、まるで、少年漫画のライバル関係のようで、魅力的でした。WOWは彼がダンスをはじめたきっかけやダンスに対する思いを話すことはその時点ではほとんどなく、彼のダンスに関わる情報は振りをすぐ忘れてしまうということくらいでした。どうやら、やはり、彼は、あれだけ踊れるのに、さしたるこだわりをダンスに持っているわけではなさそうだ、ということが、わかるにつれ、そのような精神性にも非常にひかれていきました。(あとからわかったことですが、彼はもともと音楽がやりたくて、ダンスはアイドルを志すにあたり、あとからはじめたものでした。)


20170915 Yeouido Hangang Busking - Dance Time #ACE #에이스

 また、A.C.Eというグループ全体においても、彼らが、ホットパンツという衣装や、カバーダンス、女性アイドルの曲のカバーなど、それらにまったくフラットにただただ注力し、良いものを残そうとする態度に希望を感じ、とにかく彼らに商業的に成功してほしいと思うようになりました。しかし、彼らの活動は恐ろしくインディー感あふれるもので、cactusで活動した後、次のシングルを出すためにクラウドファンディングをはじめ、その後、2曲目callin'をリリースし、約1週だけ活動したあと、2人と3人にわかれてTHE UNIT(デビュー経験のあるアイドルを対象にしたリブートサバイバル)とMIXNINE(YGが中小事務所をめぐり練習生をピックアップし新たなグループを作るサバイバル)というサバイバル番組に出演します。この時点で、私はクラウドファンディングに課金したり、メンバーの衣装と同じ服を紆余曲折をへて購入したり、いままでにはないかかわり方をしており、グループとして活動して成功をつかんでほしいと心から思っていたため、サバイバル番組で彼らを見ることに非常に抵抗を覚えました。WOWのダンスが唯一無二であり至上のものであると思っており、それがサバイバルという文脈で評価の俎上にのるのが耐えられませんでしたし、もしサバイバル番組を誰かが勝ち抜きデビューすることになれば、グループ活動が滞るからです。ですが、WOW中毒としては、彼が動いている瞬間は一瞬も見逃したくなかったので、MIXNINEを目を皿のようにして見はじめました(THE UNITは心の負荷を減らすために一部しか見ていません)。ここでは、プデュでは積極的に行っていたハードな状況にある若者に自分を憑依させることなどできるはずもありませんでした。そういうところとは無縁なものを自分に与えてくれるWOWのダンスがハードな文脈に放り込まれていることが、ただただつらかったです。彼は踊りながら歌うことがA.C.Eの他のメンバーにくらべて得意ではなく、また、自分を積極的に押し出すタイプではありません。おそらくそのせいで、低いクラスから番組をスタートさせました。順位も他のメンバーにくらべて低く、その葛藤が番組で取り上げられることもありました。徐々に存在感を示して、順位をあげました。しかし、THE UNITにしてもMIXNINEにしても、プデュとは違い、注目度が非常に低かったです。どちらの番組でも参加している子たちは最大限努力し、プロ意識を持ち、良いステージを作っていたと思いますが、注目されておらず、まったく成功への道筋が見えませんでした。わたしはかなり精神をすり減らしながら、ミックスナインを最後までみました。結果としては、ドンフンとジェイソンは最終メンバーに選ばれ、WOWは最終評価まで残ったものの彼だけが最終メンバーからはずれました。THE UNITでは、チャンが最終メンバーに選ばれ、その後、デビューしました。MIXNINEはその後YGと各事務所と活動の方向性において折り合いがつかず、結局最終グループはデビューしませんでした。その後YGの諸問題で、ヤンサがYGを去ったことで、私の中でMIXNINEとはなんだったんだ、という気持ちが強く残りました。ただ、注目度が低かったとはいえ、そこで新たなマスターがついたり、多少ファンが増えた感覚はありました。日本でもそこそこ認知度が上がり、日本でもライブをしたりするようになりました。はじめて生でA.C.Eをみたとき、WOWが映像でみるよりも、常に、とてもゆったりとした動きをしており、本気で感動しました。同時に、トークなどでの彼の様子は、脳天に響くほどにかわいらしく、高貴で、わけへだてない様子がありました。はじめてのライブの帰り道、歌舞伎町を歩きながら、心の拡声器で、WOWかわいいかわいいWOWかわいいかわいいか!わ!い!い!、と叫んでいました。そして、わたしのWOW中毒は、いまにいたるまで、いろいろな変化をしつつ、保たれています。A.C.Eの活動も順風満帆とまではいかないまでも、定期的にカムバして活動できています。THE UNITに出演していたMVPというグループがあります。彼らはA.C.Eと同じようにデビュー後すぐサバイバルに出演しました。そして、いまにいたるまで、一度もカムバしていません。彼らのことを思うと、A.C.Eがここまで活動してきたことが本当に奇跡に思えます。ずっと彼らに商業的に成功してほしいと思ってきましたし、WOWに対しては、本当につらい時期に救いになってくれたので、本当に感謝の気持ちがあり、彼の人生が本当に幸あふれるものになってほしいと思ってきました。いまでもそれは変わりませんが、WOWがダンスとは別のところで、時折見せる葛藤や苦悩に触れるようになって、ときどき、私にとって最も救いになる彼のダンスが、そもそもは彼の葛藤や苦悩を前提にしているものなのだろうか、と思ってほろ苦さを感じたりもします。メンバーの年齢から、そろそろ活動にタイムリミットが生じてきました。A.C.Eの道がどこまであるかわかりませんが、いま彼らを見られる瞬間を大切にしたいと思います。

 さて、ここまできたら、あとは佐野狂いの話を残すのみになりましたが、極私的にはWOW中毒があってこその、佐野狂いであり、WOWに出会うもともとのきっかけであるプデュが日本で放送されたところで佐野くんに出会ったのは、私の中では円環のように感じられ、この文章を書くにいたったと思います。本当にすべて自分のなかのつながりであり、ですが、同時にとても遠い風景として存在する、アイドルとは本当に不思議なものだと思います。

 

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わたしと(の)K-POP 佐野狂いまで ②沼の一歩手前 EXO f(x) VIXX BTS

 SHINeeにハマったことで、K-POP全体に目を向けるようになり、色々なグループの曲を聞いたり映像を見たりするようになりました。私がこれまで一番深くハマったと感じるのは、SHINeeとA.C.E、そして佐野(佐野...)ですが、その一歩手前までを、ここでは振り返ろうと思います。なぜ、一歩手前なのかを考えたとき、ひとつはグループの中の個人にものすごく深く入り込むことがなかったから、もうひとつは、K-POPを聴くようになる前から好きだったものと接続しやすく、後ろから急に襲われてどうしようもなくハマった、、といった感覚ではなかったから、ということがあるように思います。あとひとつ、これが一番大きな理由かもしれません、出会った時、私の人生がそれなりだった、という、、常につらいときにハマる、、それが一番深い、ということなのかもしれません。

 


まず、EXOについてです。当然、SHINeeにハマった以上、そのあとにデビューしたEXOは、壮大にデビューTeaserが多発されたところから、一生懸命見ていました。もともと中華圏の映画やドラマが好きだったことから、特にMを中心に見ていました。ですが、Mを中心に見ていたのは他にも理由があって、デビュー時にEXOの顔であったカイのことが、少し怖かったからでした。彼のダンスは、なんというか、自身のもどかしさや行き場のないエネルギーのようなものを直接、身体の動きとして表現しているような感じがあり、それが、EXOという、非現実的な設定のもと進められるプロジェクトの中にあっては、多大な齟齬があるような気がしてしまい、どのように見ればいいかわからなかったのでした。また、最初はKとMで完全に活動が分かれていたので、とにかくMの方を見ていました。とにかく盛りに盛られた設定のなか、なんだか懐かしさを感じさせる曲が壮大に打ち立てられていく様は壮観でした。個人でいえば私はチェンが好きでした。理由は至極単純で張震(俳優)に少し似ていたからです。こういうところからも、アイドルグループを見ているというよりも、どこか映画をみているような感覚で、眺めていた気がします。EXOは、自分の中でははっきりと物語だった気がします。別々のところから集まった人たちがなぜか行動を共にし、なにかしらの紐帯がうまれるという物語です。それは、設定としても彼ら自身の物語としても、です。従って、メンバーが1人ずつ去っていくことで、私の中の物語が維持されなくなり、だんだんと心が離れました。ですが、その都度その都度の構成で、活動を続けているのを遠くから眺めていると、いまは、彼らからそれとはまったく別のタフネスを感じます。

 


EXO-M 엑소엠 'WHAT IS LOVE' MV (Chinese Ver.)


 EXOとともにf(x)もかなり一生懸命聴いたりみたりしていました。私は女子アイドルに深くハマることがあまりありません。なぜかというと、おそらくですが、私のジェンダー観の歪みによると思います。女性性を忌避するような家庭で育ったため、私は、女性であること、に大きなコンプレックスを抱いて育ち、今に至るまで、そのコンプレックスはなかなか解消されません。そのコンプレックスから、私には、男性への復讐心と、女性への拒否が、同時に存在し、女性を見るときにどうしても自分を男性的な位置に置こうとしてしまうところがあります。これは、かなり自覚的に修正しないと、自然にそういう視点になってしまうので、その自分に苛まれてしまいます。自分の視線もその視線にさらされるアイドルの苦境も身に迫ってきて苦しくなってしまうのです。(同時に男性アイドルには同一化と復讐心を持って見ていても、そこまでの苦しさは感じないので、業があるなと思います。)ですが、私は、ポップミュージックにおいては、女性の声の方が聞いていて心地いいので、音源としては女性アイドルの方をよく聞きます。f(x)は、それに加えて、見る見られるということを非常にニュートラルにする力があり、いい意味で性を感じさせずに世界に入っていけました。私が最も好きなf(x)の写真の中で、5人はバラバラのところを見ています。これが私の中ではf(x)の象徴です。寄り添うでもなく、元気づけるわけでもなく、ただそこにいる、そこにいるそのシルエットがなによりも人を惹きつける、というニュートラルさが彼女たちのパフォーマンスにはあったような気がします。同時にケアと怒り、そのどちらでもなく立てる女性の姿に勇気付けられたということもあると思います。ちょうど里帰り出産をしたときに、Red Lightがリリースされ、なにもないような田舎の夏のなか、赤ちゃんが寝ている横で、分厚いブックレットをみていると、まるで、そこから幻想の通路がつながっているように感じたのをよく覚えています。ですが、実際は彼女達の道は常にかなりの苦境にあったように思います。私がアイドルに向ける視線は常に自分勝手なものである、と強く感じます。それに感謝するときも謝りたくなるときも、どちらも同じくらいにあります。

 

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f(x) 에프엑스 'Red Light' MV

 

 ここまでは、SM関連ですが、そのほかでハマったのがVIXXです。多感な時期にビジュアル系バンドがうなるように流行っていたので、私ももれなくそこを通ってきました。なので、そこにあった要素がアイドルに非常に先鋭的なかたちで取り入れられているVIXXに、いっとき非常に夢中になりました。特にVoodoo Dollで活動していたとき、PVを狂ったようにスクショしました。私は皮膚の変態を見るのが好きなので、ヒョギの腕が、木肌、あるいは鱗のようになっているのをみて、ものすごく興奮してしまい、すごい!!アイドル!!すごい!!と心の中の校庭を走り回りました。すべてのメンバーが異なる皮膚の変態をまとって、演出過多のダンスをするPVをみて、すっかりハマってしまい、そこから、あらゆるコンテンツを遡りました。曲も、SHINeeなどに比べると、比較的馴染みのあるハードさがあり、心が繋がりやすかったです。ここでも、私はまだダンスをダンスとして楽しむことはなく、一番みていたのはホンビンとケンでした。ホンビンが踊るとき、ぎしぎし、という音が関節からするんじゃないか、というくらいの、ぎこちなさがあり、あまりに芸術的なぎこちなさなので、感動しました。ケンに関しては、最も、VIXXが提示する世界観にビジュアルが合致しており、よくやったものだなあ、、と毎回感じていました。どちらにしても、ダンスをメインでやっていないメンバーの折り合いのつけ方を、興味深くみていました。ですが、私がVIXXに一番求めていたのは、先鋭的な世界観であり、当然それは常に変遷するので、カムバごとに合致の程度がかわり、つかず離れずの距離をとってきて、いまに至ります。

 

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빅스(VIXX) - 저주인형 (VOODOO DOLL) Official Music Video

 

 最後にBTSです。ここで取り上げるなかでは最もハマっていたといえます。コンサートも数回行きましたし、ファンクラブにも入っていました。BTSはデビュー当時から音楽番組なので見かけていましたが、その時は、なんだか変なメガネをかけている人(ラップモンスター)がいるな、という程度の認識しかありませんでした。興味をもったきっかけは、TwitterのTLに流れてきたラップモンスターのインタビューでした。そこには、ヒップホップということを意識的に取り入れたこと、化粧をすることの意味、アイドルなのかアーティストなのかという命題について、などが書かれており、こういうあり方もあるんだと思い、そこから、彼らが独自に公開しているコンテンツを見るようになりました。そこで、自分たちの出自や立っている場所を明確にしつつ、発信される曲に触れて、ほんとだ、ヒップホップだ、と思いました。ローカルなところに自分を位置づけて、自分と自分を取り巻く周囲について話す、そして、ここからより広いところに発信するという意思を示す、ということをしていて、それが、とても、おもしろく、リアルさ、というのを感じました。私にとってヒップホップというのは男性性を寝かせるのも込みでめちゃくちゃに立たせてみせる、というイメージがあり、なかなか入り込めないジャンルでした。ただ、局地的にものすごく好きなものもあったりして、アンビバレンツがありました。なので、アイドルとしてヒップホップをする、ということに興味をもち、かつ、それが、かなり奇跡的なバランスでどうやら成り立っているようだと感じ、すごい!!と再び心の中の校庭を走り回りました。彼らの作品には彼らの葛藤やそこを通った結果の決意がそのまま語られており、漏れだす葛藤をこちらが感知する、というタイプのものではありませんでした。ですので、ここでは、主役は語られることそのものであり、それを語る彼らでした。ですが、私がハマった時点で彼らは花様年華の時代に入っており、そこでは、また異なる葛藤があるような気がしました。それは、ヒップホップをアイドルという場で体現しようとすると、実際は、自分がローカルなところからここまで一本道で通じてきたというリアルな感覚と、一種ステレオタイプ的な若者の危うさとが、どうやらひとところには収まらなそうだ、ということでした。彼らのその時期のPVは、なにかしらの袋小路、もはや、その映像にだけしか存在しない若者演出の中にいて、そこから出られない感覚を与えるようなものが多く、一方で、出自を常に語るということが並列していたように思います。それがおもしろく同時に難しさを感じさせました。

 一方で、私はここではじめて、いわゆるダンスメンバーにハマりました。ジミンです。彼は私にとってはカイと似たタイプのダンサーでした。カイをはじめてみたときの恐れは、彼が存在する場所との齟齬によるものでしたが、ジミンの場合は、そこで語られていることが主役である以上、彼のダンスが彼のもどかしさや不安、揺れ、出どころのないエネルギーのようなものを躍動させるものであって然るべきです。そう感じて、私は彼のダンスに夢中になりました。ですが、それも、ダンスそのものというより、彼のプレゼンスにハマったというべきだと思います。彼が彼のことをどのように見せたいのか、その意思が身体の動きとしてあらわれる、また、その際に見せ方に対する迷いもあらわれる、そのあらわれかたを見て、彼の感情を追う、といったようなところがありました。ですので、コンサートに行ったとき、ダンスという意味では、ジミンではなくJ-HOPEに目が奪われました。私はコンテンポラリーダンスを見るのが好きで、ローザスというカンパニーの公演に行ったとき、主宰のケースマイケルが他の女性ダンサーと踊る作品をみて、完全にケースマイケルが他のダンサーの踊りを牽引している、と感じたのですが、J-HOPEにも同じことを感じました。彼が常に、ニュートラルな正確な動きで、しかもヒップホップという文化のうえにたって踊ることで、他のメンバーのダンスを牽引していて、そのことで、彼らにしかない統一感と一貫性がそこにあらわれるんだと感じ、コンサートでは彼ばかりみていました。

 このように、BTSについては、考えるべき要素がものすごく多く、彼らについて、色々と考えてきたなと思います。他にも色々考えたことがあったような気がしますが、これ以上話すと、収拾がつかなくなりそうです。彼らが商業的な成功を手にするにつれ、私の入り口であった、ヒップホップ感が薄れ、逆に非常に戦略的な演出があるような感覚が強くなってきました。そうなると、自分の中で考えてきた要素同士が引き裂かれ、全体像がわからなくなってきました。いまは、新しくリリースがあれば少し見て聞く、ということになっています。日プのコンセプト評価にクンチキタという曲があり、その中に、「練習室 to the ステージ 毎日汗を流してきた」という歌詞があります。これを聞いたとき、これがBTSが与えた影響なんだなあ、と思いました。どの道を通ってここに来たかということをアイドルという文脈においてあらわすことが、彼らのやってきた、ものすごく大きなことであるように思います。

 


【日本語字幕/カナルビ】BTS(방탄소년단/防弾少年団) - 등골브레이커(Spine Breaker/背筋ブレーカー)

 

 

わたしと(の)K-POP 佐野狂いまで ① SHINeeとジョンヒョン

私は、バンドと香港映画と総合格闘技やおいが好きな青春時代を過ごしました。映画の中で行われる男性同士の関係性を示す暴力や、ライブハウスで鈍器みたいな音楽で殴られるような経験が好きでした、もちろんそれらは今も好きです。その後、だいぶ大人になってからK-POPを聴くようになり、自分がアイドルにハマるなんてな、と思いながら、気づけばもう約10年が経とうとしています。大人になると、自分自身には変化はあまりないのに、周囲が驚くほどの勢いで変化していき、時間の流れがよくわからない、これが大人になりきれないということか、、と日々実感しています。

さて、私は現在、PRODUCE101JAPANに出演していた佐野文哉くんに、かなり異様なハマり方をして、先日佐野くんは脱落してしまいました。喪失感とともに、なぜか、走馬灯のように、いままでの自分とK-POPの歴史が思い返されたので、自分の狂いの供養のために、振り返ってみようと思い、これを書き始めました。おそらく、自分の話しかしないでしょう。いつもそうです。

 

私のK-POPは2NE1からはじまりました。そのときやらなければならないことが行き詰まっていて、逃避のためにYoutubeをぐるぐるしていたら偶然目に留まって、それぞれがまったく違う存在感のある女の子が4人、歌って踊っているのに興奮しました。4人ともがグループからそれぞれはみ出しながらグループとして存在している感じが、とても新しく、ブルドーザーで轢かれながらなおも存在するようなCLの声と、ミンジの周囲に干渉されないような存在感が好きでした。ものすごく危ういバランスでいっとき非常に強く存在するグループだったので、これがアイドルというものかな、と思ったのを覚えています。

 

 


2NE1 - UGLY M/Vss

 

 

その後、だいぶ長く付き合った恋人とこの先どうしていくのか、ということでだいぶ焦燥していたとき、なぜか、SHINeeのPVを繰り返し見るようになりました。私のK-POPへのハマりは、常に人生が困難なときに訪れるようです。なぜ、SHINeeだったのか、はっきりとはわからないのですが、私が横目でテレビで見ていたK-POPの男性グループというのは、大体がアピールされる肉体であるというイメージでした。特に日本のテレビの中ではそうで、2PMや東方神起など、常に威圧がある、という風に感じていました。ですが、SHINeeは、少し違っていて、あまり、こちらに圧を送ってこない感じがあり、ずっと見ていられるなと思いました。曲は、自分があまり深く聴いてこなかったタイプのものであり、新鮮だったし、なによりもそれぞれの声がかなり違っているのに絡まり合って聞こえるときにあらたに立ち現れるものがあり、ハーモニーということにはじめて興味を持ちました。ここではじめて、コンサートに行くようになります。はじめてのコンサートはさいたまスーパーアリーナでしたが、非常に良い席で、ほとんど遮るもののない状態で見ました。びっくりしました。ものすごい情報量で圧倒されたのもありますが、主役がいないなと強く感じました。アイドル自身も音楽もダンスもどれも主役ではなくて、そこに関わるすべての人で、なにかよくわからない空間を支えているような、不思議な経験でした。SHINeeのコンサートはSHINee Worldと銘打たれていますが、なるほど、だからworldなのか、だからアイドルはグループでいるのか、アイドルが提示するのは、表現じゃなくて、空間なんだ、そしてそこには思念しかないんだ、エウレカ!!となりました。

グループとは別に、ここで、私ははじめてペンである状態になりました。ジョンヒョンペンです。コンサートでのジョンヒョンは、魂が口からはみ出ているような、非常に座りの悪い様子があり、目を奪われました。ダンスも、狂ったように踊るときと、全然身体が動いていない時があって、どちらも、コントロールしきれていないような、同時にコントロールのみに注力しているような、ものすごい質量の葛藤とそこから出てくる内臓みたいな塊感のある歌に、ずぶっとハマってしまいました。バックステージでも、彼は終始、ここにどのように自分はいるべきなのか、なぜ、自分はここにいるのか、ということに答えがどうやってもでない、というような雰囲気を発散しているようにみえました。私は彼を通して、葛藤のさなかにありながら時間を過ごす人の有り様をみて、活力を得ました。これが、ある種、感情の搾取であり、人格の消費である、と、思ってはいましたが、そこまで、そのことを深くは考えていませんでした。なぜなら、距離が保たれていると思っていたからです。コンサートにはかなりの動員があり、日本では接触イベントもほとんどなく、マスター文化やペンサの様子などに深く触れなくても、毎回コンサートのソフトがリリースされ、十分な量のコンテンツがあったからです。また、単純に彼らの音楽を楽しんでいました。毎回練られたコンセプト、質の高いジャンルを横断する楽曲群、そこに、私が生身な人間を見出すジョンヒョンの声があり、非常に立体的なものとして、彼らの音楽に魅せられていました。(唯一の不満は日本での独自な活動で、コンサートも本音をいえば、全部韓国での曲であってほしかったのですが、ある時点までは韓国での曲をまとめて披露するコーナーもあり、本国でのコンサートもソフト化されるので、それで十分でした。)それは、いままでの音楽経験とは少し違っていて、自分にとっては新たなものでした。なので、彼から漏れでる葛藤も、どこかフィクショナルなものとして、楽しんでいました。人っておもしろいなあ、というように。それは、私自身の葛藤もおもしろいなあ、と思う通路のようなものだったのかもしれません。

また、この時点では、彼らのダンスを、ダンスそのものとして楽しむ、ということをあまりしていなかったように思います。テミンのダンスもSHINeeのダンスももちろん素晴らしいのですが、自分にとっては、このとき、葛藤への注視が非常に強かったので、ダンス自体を見ることはあまりなかった気がします。すなわち、ダンスは、彼らの葛藤がもっともダイレクトにあらわれ、かつ、その葛藤とどのように折り合っていくかというプロセスがあらわれる、一種、装置のようなものであり、そして、私はジョンヒョンの葛藤をもっともみていました。ほかのメンバーもそれぞれに葛藤があるようでしたが、常にその場においての注力があり、最適化されているように感じられ、それもフィクショナルな側面を強めていた気がします。自分にとって、ジョンヒョンという、人として、を強く感じさせる部分と、主役がおらずに進んでいく普遍性の高いフィクショナルな部分とが相まって、特別な、星が家の前に落ちてきたような存在でした。

 


SHINee - Excuse Me Miss

 

その後、ジョンヒョンは、ソロ活動をはじめ、表現するということで、常に葛藤を発散させている様子ではなくなってきたような気がしました。グループにおける役割も、求心力のあるインパクトとなる発声、というだけでなく、後景として広く広がるような存在にもなってきました。ただ、彼のソロ活動の曲も、非常に音楽的な意義というか、自分の曲が現在のムーブメントの中のどこに位置づき、どのような現在性があり、どのように受け取られるのかが強調されるなかで、彼の葛藤をあえてフィクションとして異化するようなところがあった気がします。彼のソロコンサートのライブビューイングを見に行ったときに、私は彼に南の島とか、北極をあげたいな、と思いました。そういうあげられるはずもないものを、あげたいなと思うような、気持ちがわいたのは、多分、その時点の彼の答えが、あったような気がしたからです。彼は、ずっと、そのとき、そのとき、何度も、自分の答えを出し続け、けれど、そこにいられず、また、次の答えを出し続ける、ということをしていたように思います。そして、だんだんと、それが明確になってきたように、感じていました。

 


JONGHYUN 종현 '좋아 (She is)' MV

 

彼が亡くなったとき、まるで、私がフィクションとして楽しんできたことが、最も凄惨なかたちで現実になったような気がして、自分の楽しんでいたことにも打ちのめされましたし、アイドルという概念が彼らにあたえる拘束について、考えざるを得ませんでした。その前にオニュが書類送検されたこともあり、グループとしての揺らぎが生じたときにも、拘束について考えていたので、余計に、強く、衝撃がありました。いまも、どのように、そのことを考え、自分に、どう落とし込むのか、はっきりしていません。ですが、生きているものの人生、いつか死ぬものの人生は、続かざるをえません。そのなかで、わたしはSHINeeとジョンヒョンに関していえば、その時々の答えを、みてきたな、と思います。その時々の答えは、必ず、変遷し、ときに裏切られ、生きるためには、また、その時の答えを出すしかありません。そのように思えば、彼らの営みも私の営みも、輝くし、そこについえるものがあっても、それも答えだろうと感じます。私がある側面においては、搾取や消費として、彼らに接したことはまぎれもない事実であり、それらの総体が害になる、ということはあるでしょう。彼が亡くなって、SMのグループをどのように見たらいいのかわからなくなり、私のK-POPとの付き合いもだいぶ変わりました。ですが、まだ、離れがたいのは、同時に、人がいれば、常にstruggleがあり、それが昇華される場がある、という希望を、そこに見ているからではないかと思います。

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 HALO

彼女たちは言う
わたしたちは
あたまがわるい
彼女は言う
わたしは
あたまがわるいから
わるい
から
「生きる」
わるい
から
「わらう」
わるい
から
「あ」
先生よりも
わたしは
「生きている」


「ね」
ばかだから
「わからない」
たすけて
「と」
いえばいいの
「やって」
これを
「ね」
だだっぴろい
水たまりに
草がはえている
ゆれている
「ねえ」
「ねえ」
あなたのことを
すっかり忘れる
けれど
あなたは
消えたり
透明になったりは
しない
「残念でした」
彼女は
「ばかだ」
ぼくは
「ばかだ」
彼女と
ぼくは
ちがう
ぼくが
「死ぬ」


先生よりも わたしは 生きてる 
土に 足を つけて いる
倒れないように
わらって
いる


わたしは
ひばく している
かわいい
ばか
まちがい
ゆるし
いのり
あたま
からだ
わたしは
ひばく している
きみの
ゆびが
くさって おちる
「音」
くびを かしげる
「光」
めを ほそめる
なにも
あなたや
わたしを
みていない
きょうだいの
からだを
ひきずっている
トカゲは
きょうだいを
しらない
花は
はなびらの
数をかぞえない
ぶんれつ
する
やりかたが
あしたからは
ちがう
ということを
喉をいためて
だれかが
はなしている
なにもきいていない
水が
穴にすいこまれていく
なまえを
つけた
毛玉が
ちりぢりになる
なまえをつけられた
何 は
さいごまで
わたしを
認めなかった
運行は
運命とはちがう
運行に
轢かれる 何 が
あり そこには
声が ない
「音」
耳を 削ぐ
「光」
目を 塞ぐ


古文を 教えてるんです
ゆるく あいた 口が
横に のばされる
どうか 彼女が
長生きするように

私は 
つぶやいている

 uki

すこし
道から
浮き上がって
歩いていると
何年も
会っていない
ともだちの
体に
つまづいて
転んだ
刷りガラスの
向こう側の
声だ
blackbird
blackbird
お洒落に
生きることばかり
考えていた
お洒落だなあと
つきはなして
話すのも
そのためだ
ともだちの
体は
ここにあるものが
唯一ではないので
ぶつけた
指が
ずきずきとする


靴を脱ぐわけには
いかなかったので
もう一度
友達のからだを
越えた
方向が
わからなくなった
友達のくちもとは
ろうそくが
とけたように
えぐれていた
腕が
胴に
くっついてた
会いにきたのではない
blackbird
blackbird
あすこは
東南アジアの
どこかの
地下
きらきらと
首を
あしもとに
おとして
いく
友達のからだの
いぼいぼに
目を描いて
あそんでいたら
日が暮れて
クライマーが
ゆっくり横ぎった
山を
なめると
ひどいめに
あう
指何本かじゃあ
すまない

小枝を
おとしていく


きみは
会いにきたんじゃあないね
きみは
会いにきたんじゃあないね
きみは
会いにきたんじゃあない
じっとして
だめになる
なにか
blackbird
blackbird

 hitahita

タイム涼介アベックパンチが映画になる
ということもしらずに
パンパンになったパンダに
おしつぶされて
窒息する
1時間後に
蘇生したけれど
もう
すっかりちがってしまった
ちがって
しまったの
かしら
もう
すっかり?


あかちゃんが
いい
においを
させている
おかあさんは
花柄のタイツを
はいている
細かいプリーツの
スカートを
はいて
花が大きい
花が大きかったね
ベッドにつっぷして
いるとき
お父さんが
覚えているのは
花が大きい
ということだったり
するんだ

お姉ちゃんが
言った


そんな思い出はいらないのだけれど
そんな思い出は知らない間に
お気に入りのワンピースに
とんだミートソースのしみみたいに
こすらずにいられないものだ
そうだね
そうだ!
お外であつまって
手をさする
パーカーの合わせを
うえまであげて
ただあつまっている
そうだ!


おいしいものをたべること
あたたかいふとんでねむるとき
あこがれの皮膚をなでること
すべてさしひいても
ひどい
ひどい!
たのしい
たのしい!
デモに行くひと
被災したひと
ひとびと
だれひとり
おなじきもちなんかでは
ないだろう
みんなちがう
なまえで
あつまっている
そうだ!
かなしい
ちがう!
つらい
しらない
ひどい!
夜に焚き火があるように
思い出はいらないのだけど
大きな花があたためられて
いた!
いたい!
にんげんはチンパンジーとちがっている
教えようとすること
抽出すること
時間をながく感じること
抽象すること
おいしいものも
あたたかさも
あこがれも
ひどい
のうえに
ぐらぐらと
のっかっている
眠る前の
まばたきが
今日も
かわいている
かれらはもどってきませんでした
もうはいれなくなるとおもう
花火みたいに
人生がおわるイメージで
まだいるのかしら
まだ
ロッカーを素手で殴る
イメージで
生きているのかしら
人間は
花火じゃありません
ロッカーを殴ったら
きみの方が痛い
血なんかはでない
花火も
雪も
ずっと一緒にいたら
だめになる
からだが


花が大きい!
こぼれそうだ


家族は
みな
肺や

内臓の一部を
失って
そこから
しばらくを
生きました
もしくは
生きています
あなたに感情を昂らせる権利はないです
と言う声はいつもふるえている
あなたには泣いたり怒ったりする権利があります
と言う声はいつも平らだ
と決めること
月の骨が電車に突き刺さったため
大幅に遅れが生じています
みなさまにはたいへんご迷惑をおかけして
申し訳ありません
どの声に
許されたと
感じるのか
許されたいと
思うことが
なによりも
ひどい
けれど
許されたいと
思うことが
昇ってきて
やまない
あたたかさや
おいしさ
のように
からだのなかを
ひたす


あこがれが
ぼろぼろになっても
あこがれのままなので
とても
ひどい
ひといことばかり
どこかしらで
いつも
あります


子どもの手は
ゆるくにぎられている
いいにおいがした
頬の煤が
わらっている